基調講演サマリー

基調講演:つなぐ・超える・変える 〜 課題先進国日本の「課題」

大阪大学コミュニケーションデザインセンター 教授 小林傳司

 

1. 日本が抱えている課題

 私たちはこれまで、「自分で考える」ということをきちんとやってこなかったのではないだろうか。どこかにお手本があり、それをなぞればいいと思っていたように感じる。かつては中国がお手本であり、明治以後はヨーロッパ、そして第二次世界大戦後はアメリカをお手本にして、自分で考えることを怠ったのではないか。結果として、そのツケが回ってきたといえるだろう。結論から言えば、日本社会がこれから取り組むべきなのは、自分で考えること。これに尽きる。
具体的な課題として、今後ほぼ確実に起こる人口問題が挙げられる。2030年には50歳以上、2060年以降は60歳以上の人口の割合が最も高くなる。さらに、債務比率の高さの問題。これから生まれてくる子どもたちは、年金など社会保障によって受け取れる額が支払う額を完全に下回ることになる。これが解消されない理由は、民主主義では多数派の年代が投票を通じて政策決定に力を持ってきたため、若年層など少数派の意見が反映されにくいことと関係している。しかもこの事態を最初に迎えるのは日本なのであり、海外に対策のお手本はないのだ。

2. 市民参加の流れ

 政策決定には市民参加が重要ではないかという議論は、日本だけでなく先進諸国でも行われてきた。最近では、政治の“i-Pod化”ということが言われている。現行の民主主義下では、各政党の掲げる政策をCDアルバムのようにパッケージとして選択しなければならない。しかし、好きな曲をi-Podにダウンロードして聴くように、個別の論点に対して政策を選択したいという価値観が私たち市民の間に芽生えはじめ、暫定的な信任を生むための個別論点に対する市民参加の場が各国で持たれるようになってきた。と同時に、議会の決定と個別の市民参加の意思決定とどちらを優先するのか、市民参加の場でのファシリテーターの役割はどうあるべきなのかといった課題も出てきている。
日本の政治における市民参加の歴史は決して長くはない。人びとが動き出したのは、ボランティア元年と呼ばれる1995年の阪神淡路大震災のとき。当時の自民党幹事長は、「市民が信頼に足るパートナーだとわかった」と述べた。1970年代から1990年代にかけては、参加を求める市民は反体制派と捉えられていた時代だった。そうした中、1990年代後半の吉野川可動堰問題に対する運動は、地元の問題について東京で意思決定を行うことに対し疑問を投じ、自分たちで納得した決定を行うことを求めた点において、単なる政府批判ではない、主体的な意思決定を行う市民の出現を意味していた。

3. これまでに関わってきた市民参加の議論とその発展

 私が初めてファシリテーションに出会ったのは1998年のコンセンサス会議だった。社会的対立のある科学技術問題について、市民と専門家が一緒に議論を深め、何が問題であるかを討論した上で、自分たちが市民としての見解をレポートにまとめるというスタイルのテクノロジー・アセスメント(科学技術の社会的影響評価)である。1990年代には遺伝子組み換えをテーマにヨーロッパで盛んに実施されていた。これは、科学技術のメリットとデメリットを経験するのは市民であることから、研究者やメーカーだけでなく、市民にも技術の使われ方について決定する討議に参加すべきという考えに基づいて開発された方法だ。
日本人には難しいのではないかと言われていたが、1998年に大阪で初めて実施した際には、活発な議論が交わされた。翌1999年には東京でも実施し、2000年には初めて農林水産省からの委託で遺伝子組み換えについてのコンセンサス会議を行うこととなった。
その後、科学技術における市民参加やファシリテーションの必要性に関する議論は、大きく2つの流れに分かれていく。ひとつは、科学技術政策の上から、イノベーションと結びつける議論。イノベーションを起こせる人材はどういう人なのか。たとえば地球温暖化の問題は、気候・エネルギー・経済など複数の専門性を扱えなければ解けない。しかし、一人が複数の専門性をすべて身につけることはできないため、複数の専門家間の話い合いをまとめていけるような能力を身につけた人材が必要となる。ファシリテーターと同様、異なる分野を“超えて”“つなぐ”人材を育てていくことが大切だ。大阪大学でも、「超域イノベーションプログラム」(2012年〜)や「公共圏における科学技術・教育研究拠点(STiPS)」(2013年〜)に取り組んでいる。
もうひとつは政策への関わりについての議論。パブリックコンサルテーションの需要が増えてきているが、そのうちのひとつ、ワールド・ワイド・ビューズ(World Wide Views, WWViews)に関わった経験がある。これはデンマークのDanish Board of Technologyというテクノロジー・アセスメントを開発してきた機関が呼び掛けたもので、世界44か国約4千人の市民が同じテーマとフォーマットのもとで議論する実験であった。京都議定書の次をどうするかという問題が、COP15(2009年12月デンマークにて開催)の場で議論されることになり、政策当局者が方針を決定をする前に、普通の市民の意見を聞くべきだというのがこの実験のポイントだった。各国間で議論の手法を共同開発し、同じ情報提供で参加者の知識を揃え、同じスケジュール、テーマ、質問で進行し、同じように提言を作る。どういう人を集めるかという基準も共通で、世界各国ごとに100人が集められ、私は京都で参加者を集めて実施した。
プログラムの最後に各国が『自国に限らず政府間交渉を行う人々に対しての提言』を発表するのだが、日本の提言は他国に比べて具体性が乏しかったのは印象的である。これは、私たちが国語教育の中で政策提言を作るなどという特定の目的や相手を意識して文章を作る訓練を積んでこなかったことに関係しているように思われる。
昨年には、エネルギー環境問題政策に関する国民的議論に、第三者検証委員会として関わった。3.11以降の原発見直しに当たり、反原発と原発推進の二項対立を乗り越えた国民的議論の展開および客観的データの検証に基づく戦略的なエネルギー政策の検討が打ち出された。それに伴い、討論型世論調査(Deliberative Opinion Poll)というアメリカで開発された手法による国民的議論が東京で実施された。300名近くの市民が無作為抽出に近い形で選ばれ、東京で議論したが、市民に事前に提供される資料等の作成に関して、専門家と呼ばれる人たちが準備に検討する時間がないといった問題点はあったものの、議論のプロセスには誘導や操作などがなくきちんと行われたことが確認できた。
これらの市民参加型議論に共通する問題を挙げるとすれば以下の3点だろう。?大変激しい社会的対立があり、専門家間で議論しても収束しなかったテーマについて参加者に議論をさせようとしたこと。?「普通の市民」という基準で参加者の抽出を行おうとしても偏りが出る可能性があること。?議論の手法における制約の厳しさから、ファシリテーターによる介入やカスタマイズが行えないこと。

4. ファシリテーターが果たしていくべき役割とは

 既存のシステムの外側で組まれる国民的議論や第三者委員会の場においては、誰が責任を持つのかという問題が残る。参加型手法への期待が高まる一方で、導入すればすぐに成果が生まれるという幻想も存在する。1990年代以降、専門家でも答えの出せない問題が増え、既存の意思決定方法では機能しなくなってきた。価値観が非常に多様化し、ひとつずつの論点に対して私はこう思うと言いたい人が多くなっている中で、ファシリテーションを使った議論はますます必要になってくるだろう。 議論の場で誘導をせずに中立を保つことがファシリテーターには求められる。しかし、経験から、優れたファシリテーターは中立を保つ黒子であるだけでなく、議論を構造化したり、多様な意見を上手くうまく組み合わせて発展させたりする能力を併せ持っていることが分かった。ではそうした能力と誘導とはどこが違うのか。これは、非常に微妙な問題だと思う。また、ファシリテーターは議論される内容について予めどこまで知識を持っておくべきなのか。一定の知識を持った上で、論点に関する見取り図のようなものを描ける方がよいのか。それとも、常にどのようなテーマのときでも一定のファシリテーション能力だけが発揮できる方がよいのか。両方のバランスをどう上手く取るべきなのか。これらについては、私自身も悩んでいる。 人びとが提言のできる社会になるために、ファシリテーションの役割もさることながら、日本社会全体が“議論のイノベーション”を真面目にやっていかないとならないのではないか。これは簡単なことではなく、どうやっていけばよいのかについては、冒頭でも述べた通り、自分たちで考えていくしかない。まだまだ道のりは遠い。 (終)