第11回 資本を増やす道具−ファシリテーションの技術事務局

  すでに明らかにされた――といっても勝手に決め付けただけですが――「事件は会議室で起こっているのではなく、現場で起こっている」という現場主義のとおり、ファシリテーションとは、個々の場面で何をするか、を大事にする心の持ちようのことでもありましょう。   すると、本の中の「ファシリテーションの道具箱」で紹介されている道具類(技術・手段)は、ある場面ではどの道具を使うのが最適か、を判断しながら使わなければなりません。そのなかには安心関係を崩すことになる、恐ろしいものが入っていることにも気がつきます。   では、道具を道具としてうまく使う留意点を、主要三場面で考えてみましょう。 ● 発散の場面で・・・  メンバーの意見の発散を促すということは、本音を引き出すこと。あえて本音を引き出して、生々しい関係性になる。ジレンマが「生(なま)のジレンマ」として現れてくる舞台を作ることになります。道具箱は、その引き金になる道具ばかりです。もしかしたら、いままで安全だと思ってきたことのなかに、それを真っ向からくずしかねない危うさが潜んでいた、なんてことが明らかになる可能性があるわけですから。まるでパンドラの箱をあけるようなものです。組織の中には問題発見というイバラの道を好まない人も、変化をしたくない人たちも、たくさんいるのが普通なのです。   ここでは、メンバー間の「一般的信頼」による場づくりに、思いを寄せる必要がありそうです。 ●収束の場面で・・・  メンバーの意見の収束を促すということは、(生み出されるはずの)価値や意味への期待と合意に、裏打ちされていなければならないでしょう。それによって、チームに変化が芽生える、というのがファシリテーターとして関わるものの理想だと思います。でも、なかなかそうはうまく行かない。  問題解決と合意形成にいたる道も、イバラの道です。新しく生まれるべきものへの期待が大きければ大きいほど、チームメンバーの恐れも強くなるのが普通の状態だ、と考えたほうがよさそうです。その恐れをいったん脇にどけて道具箱の道具を使うということは、体力の衰えた患者に多量の薬を与えるようなものでしょう。   ここでは、どうやってたがいの互助意識や「互酬性」を発揮し、価値や意味への期待と合意を作り上げられるか、が大きなポイントです。 ●評価の場面で・・・  ビジネス系の方々にはおなじみのテーマですが、会議の結果などが、その後生かされていくかどうかの問題です。ここで重要なのは、価値や意味という成果の評価基準ができるかどうかが、ひとつ。そしてもうひとつが、そこから生み出される「規範性」を確保できるかということです。  規範性について、いままできちんとした説明をしていませんでしたが、ここでは、自分たちで作り上げた合意について、自分たちで作り上げるルールによって保証するもの、としておきます。小学校のホームルームで学級委員長が、「みんなで決めたことは、みんなで守りましょう!」という、あれですね。ビジネスの世界では、「当事者意識の向上」とか「コミットメント」「結果責任」などという、ことさら難しい言葉で表現される場合もあります。規律にうるさい日本の企業では、この、評価の場面と規範性に、一番の重点をおくケースも多いようです。ただ、一般的信頼による発散がうまくでき、互酬性による収束がうまく進んだ場合には、小学生より規範 性が高まるのは、言うまでもありません。おとなですから。 ●道具を起爆装置として使う   一連の流れとして、生のジレンマを現す(発散)、新しい価値による変化を生じさせる(収束)、具体的な成果にコミットする(評価)という三つの場面を簡単に見ました。  一連の流れとは、活性化されているコミュティのところで述べた、段階としての「新しい関係性の出現」であり、「未知の意味の発見」であり、「新たな動向の誘発」にそれぞれ対応しています。これすなわち、「起こす、実行する、継続するための方法は何か」という、森さんの問いかけ(『ザ・ファシリテーター』の最終章の設 問)にも答えることとなるでしょう。  ファシリテーションは、体験や関係や方法という「価値」の交換によってコミュニティを作り上げ、活性化させ、継続させる、「起爆・促進装置」なのでしょうし、ファシリテーターはその装置の番人なのかもしれません。番人は必要とあらば、現場にわざと葛藤やジレンマや二律背反をもたらすためにファシリテーションの道具を使う、ということもするでしょう。そこに含まれている危険性を逆手にとりながらも、道具としてその場での最良の使用方法を試すことになるからです。   ファシリテーターが、いつもニコニコしてメンバーの意見を聴いているヒト、意見をまとめることだけを考えているヒト、単なる公平・公正・中立なヒト、だと思ったら大間違い。 ●自分の立ち位置とファシリテーターの中立性   つけ加えたいのは、その時々の自分の「立ち位置」を自覚すること、そして「他者の視線」を自分の中に取り込むことも、番人が道具を使う際には重要なのだということです。  自分と相手の間に適正な距離を置く。そして、私を見ている私、を見ている私、を見ている私・・・を常に同伴させておく。これは大変難しいことです。「自分の背中は、自分の力だけでは見られない」って、言いますものね。そして、自分は何に帰属し、何に依拠しているのかに自覚的になる。これが、適正な距離を置くことになります。この距離感覚だけは、電子ネットワークという場と、現場での面と向かっての話し合いやワークショップという場とをわかつ、違いなのかもしれません。  たとえば話したり聴いたりしている「私」がいるとして、「その私を見ている私」が他者(他のメンバー)の目線、「その私を見ている私」がコミュニティ(チーム・組織全体)の目線、「その私を見ている私」が社会(公平・公正)の目線、「その私を見ている私」が、世界(自由・正義)の目線、などとなっていたら、こんなに すばらしいことはないと思います。  ケネス・ガーゲンという方はこれを、「内なる他者への視野」「連帯責任への視野」「集団への視野」「システム全体への視野」と分類しています。複数の視野を自分のなかに取り込むことを、関係性=対話を形づくるのに必須の要件としているのです。これこそが、社会関係資本を増やすやり方といえるのではないでしょうか。番 人は番人なりに「社会関係資本家」として、多様な目線と視野を備えていなければならないようです。  複数の目線を自分のものとすることができれば、自分の立ち位置がはっきりと変わります。よくいわれる「ファシリテーターは中立が求められる」ということも、意見や態度としての中立性のことだけではなく、このような立ち位置の広がりのことだと考えてみてはいかがでしょう。そしてそれが、ベテランのファシリテーターの方々、とくに「第三者として中立的に介入するプロのファシリテーター」が常に頭の中で行なっている方法なのだとすれば、私たちはそれを盗んで自分のものにし、現場で活かすことができたらラッキーですよね。 <参考文献> 『ザ・ファシリテーター』森時彦(ダイヤモンド社) 『あなたへの社会構成主義』ケネス・ガーゲン(ナカニシヤ出版)