第13回 話し合いの「品質保証」としてのファシリテーション事務局

 よく言われる「傾聴の必要性」などをことさら持ち出されなくとも、私たちは、ヒトの立場に立って、そのヒトがどういう心持で話しているかを共感的に理解することが必要だということを、頭では分かっているはずなのです。しかし実際には、「複数の視点」や「他者の視線」を取り入れて他人の意見を聴くことは、とても難しいことだと思います。他人の意見を考慮していない場合は、自分の仕事や生活における【思考作用】の品質保証がなされていない、ということになってしまいます。  もともとアーレントの発言の主旨としては、「異質な他者との共存・共生を可能にする、多様性・複数性・差異性の擁護」という文脈で、「公的領域においては他者の立場になって見ること」が大事だよ、という公的(政治的)な色彩の強いものです。アーレントは、古代ギリシャのポリスの研究をもとに、あるべき民主主義について多くの著作を残しています。だからたぶん、もっとテツガク的に深い話なのですが、ここはコンテキスト無視の切り取り御免。  公的領域において通じることだったら、話し合いの場においても使える、とここでは単純に考えておきます。つまりそれは、「話し合いの品質証明(QOD クオリティオブディスカッション)」ともなる、というわけです。「話し合いの品質証明」は、もちろん、「生活の質(QOL クオリティオブライフ)」や「仕事の質」を担保するものともなることでしょう。  私は、いつも利己的に、思い込みで、突っ走ってしまいます。いくら、他人の意見を考慮に入れることこそが視野の広い思考形式だといわれようが、話し合いの品質保証につながるといわれようが、いまのところうまくいきません。キミキミ、他人の意見を考慮に入れられないんじゃ、ファシリテーターになれないじゃないか、といわれるでしょうね。まさにその通りです。修行が足りないのです。ここを乗り越えないと、自分にとっての「他者への共感」とか、「力づけ(エンパワメント)」とか「権利擁護・政策代弁(アドボカシー)」の問題が、まるきり宙に浮いてしまいかねません。そこで少しだけ「他人の意見」を聴きつつ、この問題を考えてみましょう。 ●人間の脳にひそむワナ  これまで、意味、価値、心の道具箱、方便、経験知、などという言葉を、それこそ直感的に使ってきていました。じつは私たちは、知らず知らずに自分たちの脳がおこなう「作法」に従って言葉を使い、世界を認知し、それを言葉や暗喩(メタファー)に落とし、それを繰り返すことで生きているのだと思います。認知や信念や欲求を、言葉やメタファーで表わすことで、自分に伝え、他人に伝え、それで生きている。   これを禅僧の玄侑宗久さんが、「脳はいかにして神をみるか」という本を引きながら説明してくれていますので、引用させてください(つまり孫引き)。 <脳の機能の特徴> 1 全体視機能(木の集まりは森)  ・・・いっしょくたに見ちゃう 2 還元視機能(森は木の集まり)  ・・・細部ばかり気にする 3 抽象機能 (心の分類学者)   ・・・概念におぼれて具体を見ない 4 定量機能 (数学的な心)    ・・・数えたり計ったりして、もっと欲しがる 5 因果特定機能(なぜ?どうして?)・・・ごほうびを期待しちゃう 6 二項対立判断機能(これ対あれ) ・・・つい、比べちゃう 7 実存認知機能(出口ありやなしや)・・・大げさに考えたり、あきらめたりする   七つに分けたのが元ネタ本、カッコ内と右側のおちゃめな解説が、玄侑老師の表現です。 この七つは、ヒトの脳の優れた認知機能であり、しかし同時に煩悩のみなもとでもある、というのです。この七つが、「ヒトが人間らしいやり方で、世界について思いをめぐらせ、世界を感じ、経験するための心の機能だ」、だからそこには強みと弱みがある、というのです。  そしていままで考えてきた、心の道具箱、方便、経験知、それからジレンマ、価値、意味、ゲーム理論などの言葉・メタファーは、認知作業としてこれら機能のうちのどれかを使っているといえます。方法としてのアルゴリズムは、この七つの機能の統合化・システム化みたいなものですし、ヒューリスティックスは、右側のように極端な使い方をすると、近道ばかり探す悪いクセになりかねません。いずれも優れたところもあるし、煩悩のみなもとにもなります。   みなさんはいかがですか。  私は、そうだそうだ、ヒトのやっていることはすべてこの七つに当てはまる。話し合いの時などは、これらの機能が増幅されて、組み合わされて現れてくるようでもある。自分はしかし、左側の機能を適切に活かせず、右側の「煩悩グセ」方面ばかりが出る。「意味」「価値」などの言葉の使い方がそうです。定義してから使うなんて、めんどくさくって。  ヒトの意見についても、左側のまともな機能で受け止めず、右側の煩悩ばかりが活発に刺激される。「概念におぼれる」ことが、多いです。こ〜んなことでは、対象をきちんと見たり、他人の意見を考慮できるはずがない。こ〜んなことでは、きちんとした観察・認知・思考も、ましてや悟りは得られないに違いない、と強く思うのです。  「認知・悟りなおもて得ることかなわず、いかにいわんやファシリテーションをや」 ● 仏教からも学んだ上で、品質保証への努力を!   人間の優れたところ、それすなわち、煩悩のみなもとである。これが仏教的人間観です。   一方、「脳はいかにして『神』を見るか」は、自己中心的な脳には、その機能を生かすことによる自己超越機能がある、とも主張しています。もしかしたら、似ていることを別の言い方をしているのかもしれませんね。  ヒトの脳の働きには、このような二面性があるということになります。   ファシリテーションという「働き」にあてはめてみるとどうでしょうか。  ファシリテーションには、いままでみたように「社会関係資本増加の手立て」「価値交換の起爆・促進装置」「協働・創発のための信頼のお作法」という優れた機能がある。しかしそれに潜む弱みや煩悩には充分気をつけなければいけない。つまり、万能薬のように頼り切ると痛い目にあうこともあるのだ。逆にその特質をとらえて、品質保証のための道具だとわきまえて使えば、「他人の意見を考慮する」ことによって「異質な他者との共存・共生を可能にする、多様性・複数性・差異性の擁護」を可能にしていくものだ。   漢字ばかりで恐縮ですが、そのようにテツガク的に押さえておきたいと思います。 <参考文献> 「人間の条件」ハンナ・アーレント ちくま文庫 「禅的生活」玄侑宗久 ちくま新書 「脳はいかにして『神』を見るか」ニューバーグ・ダギリ・リーズ PHP研究所