第15回 関係性が変化し、組織や社会を変えていく事務局

  「○○して欲しい!発言」は、もっぱら自分の利得のことだけを考えた「利己的言説」。   「こうしたらどうか?発言」は、いちおう構成員全体の利益(みんなのため)を考えた「功利的・全体効率的言説」。「おたがいに」などの言葉もそうです。   そして、社会関係資本の増加が見込まれる「いっしょにやりましょうよ!発言」が「生成的言説」です。ほかにも、「みんなとともに」という言葉にも、その匂いがします。 ●意見を言わない困ったチャン   さて、実は、前回の困ったチャン例に出さなかった方々がいます。   求められても意見をなかなか言わないヒト。会議中うで組みをして目をつぶっているヒト。なにかをじっと耐え忍んでいる修行僧のようなヒト。みなさんの回りにいませんか。  そのヒトにとって、その話し合いの結果については自分との関わりが少ないのです。もしくは、そう思っているヒトです。発する言葉は、「それで、いいです」「○○さんの意見のとおりでいいです」「結論が出て良かったです」「どちらでもいいです」など、「イーデス」発言が目立つようです。  社会関係資本的には、こういう方々を会議における最重要困ったチャンとして重要視したいと思います。なぜなら、もし仮にこういう方々が疎外されている、抑圧されている、と感じたり考えていたらどうだろうと想像せざるを得ないからです。もしそうであったら、信頼や互酬性、規範などの問題以前に、このチームを考えなければならないからです。そしてなおかつ、なぜ利己的でも功利的でもないメンバーがいるのか、充分に考える必要があります。少しの間、この方々にはレッテル貼りを控えてみることにしましょう。  ただ実際にはほとんどの場合、こういう方々は仲間と力を合わせて仕事を成し遂げる醍醐味をあまり経験してこなかったのだと思われます。自分の行なったことが、なにかの形で他人の役にたっていた、という気づきの体験をしてこなかった方々です。そういう体験からこそ、生成的言説が生まれてくるのではないかと思うからです。 ●アソシエーションではどうか  一般に、NPOや共同組合、ボランティア組織などのことを総称して「アソシエーション」と呼んでいます。「思い」や「志」を共有する人たちが集まってつくる組織のことです。コモンズや新しい公共圏(次回以降をご参照)という考え方は、このアソシエーションが担うものということができます。もちろん、わがFAJもアソシエーションのひとつですね。  とくに地域密着型の「ヒューマン・インターフェイス」領域では、アソシエーションにかかる期待が高まっています。それは福祉・医療・教育など、人と人が向き合って行なわれるサービスのことです。そして公共的な領域ではあるけれど、いままでの「お上からの一方的なサービス提供(措置)」だけでは、住民ニーズに対応できなくなっている領域のことです。  このアソシエーションにとってみれば、思いを共有した人たちが集まろう、言いたい人は声を出そう、そしてなにかの組織を作り上げよう、と考えた瞬間から生成的言説の世界が始まっているわけです。そして、「思い」や「言葉」が共有されているからこそ、構成員はみな平等となり、同じ権利と義務を負うことになる。平等で公平な場なら、そこは自分にとって安全で安心できる場である。そこでは自由な発言が許され、お互いが気づき合う場所として「生成的な組織」となる。そこには「意見を言わない困ったチャン」は、いません。   これが理想的なあり方です。これなら、コミュニティと呼べるものでしょう。 ●ヒトと人、ヒトの心と社会の関係   敬愛する山岸俊男さんの文章を、もう一度引かせてください。 「人間にとって社会的環境とは、自分の行動に応じて変化する他人の行動であり、また自分の行動を対応させるべき他人の行動である。 「このことを逆から見れば、一人ひとりの人間の行動にとっての自分の行動は、他の人にとっての社会的環境の一部を構成していることになる。 「この意味で、一人ひとりの人間は、自分にとっての社会的環境に応じて行動することで、他人にとっての社会的環境を構成している。 「そして、社会的環境への対応、行動の内容が、それぞれの人間の持つ心の性質によって異なってくるとすれば、一人ひとりの人間は、特定の心の性質を持つことで、他人にとって異なった社会的環境を提供することになる。 「つまり、社会的環境への適応のための道具として、特定の心の性質を人々が身に付けるようになれば、そのことによって新しい社会的環境が生み出されることになる。 「心と社会とは、この意味で、つまりお互いが相手を生み出しつつ相手によって生み出されるという意味で、相互構成的な関係にあるといえる」  長々と引用しました。ここで言われている「特定の心の性質」のうちのひとつが、たとえば「ファシリタティブな心」であり、たとえば「生成的言説」なのだと思います。そして、心と社会とをつなぐもののうち一番重要なのが、言葉であることはいうまでもありません。  話し合いで使われた言葉、アソシエーションのなかで新しく出てきたメタファー(暗喩)、それらが社会的環境のなかで資本として蓄積され、使用され、役立っていく。他人や社会といった相手を生み出しつつ、そして相手によって生み出されるという具合に、相互に形作られていく。言葉やメタファーはこのようにして作られ、あるいは隠れていた意味や価値をあらわにしていきます。  生成的言説とは、「みんなで関係を生み出していこう」という意志が強い言葉である。それによって、構成メンバーみんなの前に「社会的環境の新しい意味」があらわになる。それはみんなに揉まれながら、使われた言葉じたいも次第にメタファーともなり、社会的環境すなわち公共の領域でまるで「貨幣」のように流通していく。  いい表現ですねえ。意見を言わない困ったチャンに聞かせてあげたい。  でも再び、「言葉って、怖いですねえ」 次の新しい言葉やメタファーが登場すると、使用されていたものは役割を果たしたとして「固定化」されていく。もしかしたら登場当初の「イキイキしたオーラ」を失って、普通の「コトバ」になっていってしまう。ああ、この言葉は価値が下がったなあ、パワーを失ったなあと思うこと、ありますよね。  私たちすべてが共有している「心の性質」は、そういった言葉の性質や、はやりすたりや流通の仕組みを良く理解しています。人と人の間には言葉やメタファーがある。チームや組織の間にも言葉やメタファーがある。それらをいろいろな角度からあぶり出し、同じ土俵に挙げ、社会的環境のなかに適切な位置をあたえていく方法こそが、「ファシリテーション」なのだということも。 参考文献 「社会心理学小事典」山岸俊男編 有斐閣