第19回 見る社会から、する社会へ事務局

 日本の「見る」社会とは、存在欲求を犠牲にして、所有欲求を充足させようとしているからだそうです。「見る社会」とは観客社会。「観客社会」では、たとえ介護サービスのように人間をサポートするサービスであっても、受身の消費者として「購入」する。  逆に「する社会」とは、人が能動的に生活者として活動する「参加型社会」。「参加型社会」では、介護サービスのような福祉サービスの生産にも、社会の構成員として参加する。ということは、公園やまちが、サービス提供者も受益者も全部ひっくるめて関わる人すべてのコモンズであれば、本来そこでは「する」という行為しかないと、こういう理屈です。   「見る」か「する」か。「消費/購入」か「参加/生成」か。おおきな違いですね。 ●傷つくことを恐れない学習   ところで、日本人は勉強や学習が好きだとよく言われます。  本を読んだり、講義形式のセミナーに出たり、会社の中で勉強会を開いたりするのが好きです。会合などで自己紹介するときなどでも、「勉強しに来ました」という言葉をしじゅう聞きます。私たちFAJの大会や定例会にも多くの方がおいでになりますが、参加型のワークショップなどのセッションが多いと、事後アンケートの中には「理論や手法を、講義で勉強したかった」というお声があがります。  勉強したり知識を習得しようとしている間は、自分は傷つかなくてもすむわけです。だれにも迷惑はかけないし、自分もだれかから傷つけられたりする危険はない。安心な場所から「見る」ことに専念していれば自分にとって役立つものだけ吸収できるし、万一、それらの知識や手法が間違っているものだったとしても、なかったことにすればいい。   「大丈夫。いまは、見ておこう。そのうち、やるかもしれないけど・・・」  ここには、参加して、やって、その結果傷ついて、でもまたやる、というような発想は少ないですね。「する」「やる」は自分を危険にさらして傷つくこともよしとする立場でしょう。コモンズの中では、その立場こそを原則としなければいけないのではないかと思います。そうでないと「共有知」などと格好のいいことは言えません。成果のタダ乗りはいけません。 ●コモンズとしての共有知  開かれた話し合いや参加型のワークショップ、組織内の実践コミュニティやクロスファンクショナルチーム、共同組合活動や地域包括支援センターやまちづくりが、「コモンズ」的に営まれるとき、「見る」「勉強する」という姿勢はありえない。社会関係資本を蓄積し増加させるうえでは、自分だけ傷つかずにイイトコ取りをする姿勢というのでは、困ります。  町内の公園をめぐる住民のみなさんが、「なんとかしてくれ発言」から、「(過度期)できる・やれる発言」に変わり、それから「(安定期)できる・やれる発言」へ、そして、最終的には「いっしょにやりましょうヨ発言」にいたる理想形を見たことがあります。  この、いっしょに作り上げていく公園も、もちろんひとつの地域コモンズです。そこでファシリテーションが生きることにより、お上の「公の(オフィシャル)」公園から「共(パブリック)」の公園に変わったことでした。それまでの話し合いプロセスでも全員がそれぞれ傷つきましたが、コモンズとなってからは全員が「する」状態になり、そのうえそこでも全員が「傷ついてもいい」という状態になったわけですね。  もしかするとその先には、「公園がこう変わったのだから、みんなの家の庭も開放してみましょうか」「公園でできたことを、個人の家々でも試してみたいですな」「とりあえず、舗道に面した花壇をいっしょに手入れしますか」「それなら市も協力しましょう」という声があがる場面が出てくるかもしれません。私(わたくし)の資源の差出しは、「傷つきOK」のサインです。  それは言うなれば、「官(の公園)から民(の公園)へ」の逆の方向での「民から官へ」であり、「私有地(プライベートの庭園)」から「共有地(公共の公園)」への移行です。ここにもうひとつのコモンズの生まれ方があるようです。自分の私有財産を提供し、それによって共有の公共圏を創ろうという方向です。「すること」を基本にした合意形成の共有知は、このようにしてコモンズのなかで生まれ、蓄積されて、発展していく可能性があります。 ●コモンズの中で、傷つくことも恐れないファシリテーション  一方、話し合いの場で、ファシリテーターがファシリテートするとき、ファシリテーターはチームのメンバー同様その場に参加して傷つくこともある。いや、本当はとても多いはずなのです。ファシリテーターは、客観的で中立で傷つかない神様のようにそこに来て、見て、居て、介入する存在である、とはいえない。その当事者性を消し去ることはできません。   共にやり、当然、共に傷つき、もしかしたら癒される(かもしれない)。  アリストテレスの言葉に、「善き市民は、支配されることと支配することの双方の知識を持ち、かつその能力があるのでなければならない」というのがありますが、これをもじって使うと、「善き市民は、ファシリテートされることとファシリテートすることの双方の知識を持ち、かつその能力があるのでなければならない」となりますが、いい定義でしょ? べつの言い方をすると、プロは要らない、プロの要らない場にする、ということだと思います。  私たちは日頃、ファシリテーションということを、ファシリテートする側からばかりとらえている面があります。話し合いや協働を促進する、支援する、円滑にする、容易にする、その技術を持った人が専門のファシリテーターなのだ、と思い込んでいます。しかし、される側に立ってみれば、自分たちもファシリテートするのだ、しているのだ、されながらしているのだ、という姿勢をもって参加していたら、どんなにすばらしいことでしょうか。  つまりメンバー全員が、ファシリテートされる能力を持ったプロフェッショナルになることなのです。ファシリテートする能力のあるものが、ファシリテートされる能力のある人たちと共にあるファシリテーションの場を想像してみます。きっとそのとき、アソシエーションのみならずどんな現場でも、参加・協働・信頼・互酬・規範による、生成的コミュニティが生まれることでしょう。 ●再〃度登場、話し合いで何も言わない困ったチャン  困ったチャンのなかの「話し合いで発言をしないヒト」は、疎外されている、抑圧されていると感じているのではなく実はたんに、「関与したくない」と思っている確率のほうが高いと考えることも可能です。もしかしたら最初から「合意したくない」「結論出したくない」と思っているのかもしれません。  いやいや、もしかしたら「(ファシリテーションというものを知っていながら)ファシリテートされたくない」とまで思っているかもしれないのです。超ド級の困ったチャンですね。あまり注目されていませんが、最初からそういう心持ちで話し合いに臨んでいるヒトは、現に多くいるのだと思います。  それはもしかしたら、話し合いのプロセスで自分が傷つくのを恐れているのかもしれませんし、もしかしたらその合意や結論によっては、自分が「やる」という局面に立ってしまうかもしれないと考えている。もしかしたらファシリテートされちゃって自分が変わるのが怖いのかもしれません。思わず納得しちゃう。やる気がでちゃう。仕事が増える。責任が増す。それはまずい。自分は今のままがいいのだ。防波堤を作らねば。住み慣れた安全な場所にいたい。変わるくらいなら見ているだけがいい。本能的にそう感じているのかもしれません。   とすると、とても「日本的」ですね。  しかしながらやはり、みんなが少しずつ「する」という新しい心の性質を身につけることによって、メンバーの間に新しい理由ができるという点を強調したいのです。社会構成学的な言葉を借りれば、「問題」が構成され、「今までの枠組みからの逸脱」があり、「逸脱による痛みや傷つき」がありそれにより、「調和という新しい物語」が作られる。つまり新しい理由が少しずつ新しい社会環境を作る。新しい社会環境が生み出されることによって、少しずつの関係性の変化が、社会と個人とを変えていくことにつながっていくはずなのです。   そんなことも分からんで何も言わないでいるヤツは、「コモンズから村八分だ!」 <参考文献> 神野直彦『ソーシャル・ガバナンス』(東洋経済新報社) 野口祐二『ナラティブの臨床社会学』(剄草書房)