第2回 ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)を整理してみる事務局

 簡単に言えば、信用取引ですね。それがあるとないとでは、経済活動のコストが格段に違うということになりましょうか。中世のイタリアで生まれた為替の制度も、この信用取引で成り立っています。そこには信用を保証する「人」や「企業(法人)」が存在し、その信用によって成り立っていたのが社会関係資本のおおもとである という論旨です。  次に、ロバート・パットナムという方の『哲学する民主主義』をみてみましょう。 ここで研究調査されたネタは、イタリアの北部と南部の違いです。北イタリアでは政治・経済活動や文化芸術活動が大いに盛んで一人当たりの所得も多く、逆に南イタリアでは停滞している。この原因はなにかについて仮説検証をしました。  その仮説とは、北では市民個人の社会・政治・経済への参画意識が強い。たとえば、投票行動であったり、スポーツサークルへの参加であったり、ボランティア活動への参加であったり、各種の組合活動であったり、住んでいる場所だけでなく、地域を超えた人とのつながりが多い。その長年の行動の結果として、経済・文化活動が 盛んになっているのではないか。一方南では伝統的に、自分の町や狭いコミュニティ(コムーネ)の中での緊密なつながりはあるけれど、そこを離れたつながりや参加意識が薄い。それが停滞のひとつの原因ではないか。こういうことを証明しようとしています。  結果として、市民活動ネットワークの密度が濃く、地域コミュニティ内外での活動への参加が盛んな地域ほど、市民のあいだに相互の信頼関係があり、政治経済のパフォーマンスが高いと結論づけました。   そしてその上で社会関係資本を、「信頼感や規範意識、ネットワークなど社会組織のうち集合活動を可能にし、社会全体の効率性を高めるもの」と定義しているのです。  なるほど、確かに南イタリアはノルマン王国からこのかた王様の支配下にあって、上意下達の封建的風土が強いかもしれません。そこでは、町ごとの連帯意識は強いけれど、参加やネットワーク意識が希薄で、よそ者を受け入れない、ということはうなずけますね。その極端な例が「マフィア」でしょうか。それは、組織(ファミリー)内部ではものすごく強い人間関係をたもちつつ、外部に対しては排他的となるようなコミュニティです。  コミュニティには、�結束型(垂直型、もしくはたこつぼ型)のコミュニティと、�接合型(水平型、もしくは橋渡し型)の二種類があるといわれます。南イタリアの、同質のムラを中心としたコミュニティは結束型。北イタリアの、異なる背景を持つ人たちとの接触を広げているコミュニティは接合型、と言えるようです。これから社会関係資本を考えていくなかで、その違いもすこしずつ考えていきましょう。 ●「なにかおかしいな?」と思っていることに答えられるか  いままでも大事にされ、私たちも日頃から培ってきているはずの人間関係や人と人とのつながり方を、なんでいまさらのように理論づけて考えるようになってきたのでしょうか。ここには私たちが仕事や生活のなかで、どうもおかしいな、うまくいかないな、以前とは違ってきているのかなと、感じていることに関係することがある ような気がしてなりません。  たとえば社内会議。  今までは気心の知れた人間どうし、だれがどんな性格の持ち主でどんな意見を言いそうか分かっている状況で、いわば「アウンの呼吸ってものがあるのさ」という前提ですんなりと行なってきた会議。会社の方針と部長の言うことはそのまま承るし、あまり波風を立てないよう、そして、落しどころを考えながら意見を言ってきた。  それが最近、議論でやけに長い時間かかるようになってしまった。あまり細かいことにこだわらなくてもいいじゃないか。外資系の会社から移ってきた課長が、以前居た会社の例をやたら持ち出して、違いを強調する。会社の風土って課長が言うほど違うものかしら。先日、企業変革プロジェクトチームなるものに参加させられたら、他の事業部や製造や企画の人間の言っていることが全然理解できない。みんながみんな違う言葉をしゃべっているようで、堂々めぐりの議論が続いている。どれもこれも結果が出てこないんだ。どうもおかしいぞ・・・  たとえば自治会。商工会で。  古くからのメンバーが少なくなってしまい、新しく来た人たちは自分の事ばかり考えて、会合がまとまらないし、ゴミ出しはいつまでたってもルールどおりいかない。困るなあ。どうしても空き店舗対策がまとまらない。そのおかげで、暗がりで若いモンがいつまでもダベッていて、物騒だ。役所は役所で、いっしょに決めたことが進まない。担当者が異動すると、いつもまた一からやり直しなんだ。あれもこれも、どうしてこうなるんだろう・・・  社会関係資本なるものが、本当に「個人の協調行動を起こさせる社会構造や制度」であり、「信頼感や規範意識、ネットワークなど社会組織のうち集合活動を可能にし、社会全体の効率性を高めるもの」であるならば、このような疑問への答えを多少なりとも持っているはずです。ただし、その協調行動は、上意下達の「命令」と「服従」ではなく、長く付き合って「気心が知れた状態」や「アウンの呼吸」でもなく、「個人の人間的魅力に依存した関係」でもない。「損得勘定」でも「利害調整」でもなければ、「長いものには巻かれろ主義」でもない。 では、協調行動や、人と人とのつながり方の要因は、何だと言っているのでしょう。 <参考文献> 「社会理論の基礎」 ジェームズ・コールマン 青木書店 「哲学する民主主義」ロバート・パットナム NTT出版