第21回 セレンディピティ事務局

 たぶんその努力のみなもとは、新しい言葉や場にぴったりのメタファーにはだれをも引き込むことのできる強い力がある、ということを経験上みんなが知っているからです。雰囲気の醸成やアイスブレイクだけではなく、「何も言わないヒト」を「やる」側に、そしてファシリテート「される能力」を持ってもらえるように、言葉やメタファーによって場(コンテキスト)を作っているのだと思うのです。 ●セレンディピティ(18世紀の造語)とは  突然ですがこのセレンディピティという言葉は、「あてにしていないものを偶然にうまく発見する能力」あるいは「掘り出し物を見つける能力」のことです。すなわち、本人の意図していないとき、当初の目的以外ではあるが関連する重要なものを発見してしまう「察知力」のことです。ノーベル賞級の発見にも、このセレンディピティが働いていたなどとされるものがずいぶんあるようです。  セレンディピティという言葉はもともと、「セレンディップの三人の王子」というスリランカの伝説から生まれたようです。それを、あるイギリス貴族が手紙の中で、偶然に際しての察知力を説明する言葉として使った。最初はメタファーにもならない単なる造語でした。その手紙を受け取った別の貴族が、これまたいい発見をした、とでもいうように言葉として広めました。  数学とか科学の世界のように、あいまいさや偶然性が含まれないと考えられている学問にも、偶然性を認めながら研究をしている人たちが多いと聞きます。理性と感性を研ぎ澄ませ研究をするが、なにかの偶然や突発的なことがその研究の大きなブレークスルーとなる。違う段階へと進化と進歩を遂げる契機が訪れる。考え方のフレームが替わる。そういう偶然の力や突発事故を過小評価しない準備をしている、ということでもあると思います。  重力を「見つけた」ニュートンもそうです。理論だけでは到達できない地点がなんとなくあった。その間を埋めたのが、たまたま、木から落ちるりんごだった。それは、脳の機能の中で論理と五感が出会った、という話なのでしょうね。禅の悟りにも似た瞬間が、この出会いの偶然だと感じます。  禅には、ひよこが卵の殻を破って出ようとするとき、親鳥もそれを察知して、外側から同時に殻をつついて破りやすくする「卒啄(そつたく)同時」という言葉がありますが、それにも似ています。また共鳴性(同時性・偶然の一致=シンクロニシティ)にも通じていて、だれかひとりの問題というだけでもなく、ある行為に複数の人間が関与すると、経験上ごくまれにびっくりするような偶然の一致や連鎖があるものです。論理的には説明できないけれど、ユングなどはそれを心理学のワクのなかで解明しようとしています。 ●偶然や出会いを仮称評価しない、セレンディピティ またあるサイト(京大・片井研究室)では、セレンディピティをこんなふうに説明をしています。「発見が起きるときの状況を定性的に整理すると、�偶然その現象に出くわす �いままでの常識からはずれたその兆候に興味を示す �いままでの常識を疑い、そこに新たな仮説を立てる �その兆候を徹底的に分析し、新たな仮説を裏付ける」  そのような、「出会い」と「実践する行動力」の組み合わせのことだ、と。  その昔、ジャズマンの山下洋輔さんが、チームメンバーのひとりが「ハナモゲラ語」というのを「発見/発明」したとき、「彼は以前から無意識の準備をしていた」と、チームリーダーとして絶大なる評価をしたものでした。突然生まれたように見える常識はずれの発見/発明でも、外から見ていて「充分に準備がされていた」と感じられることもあります。このようにセレンディピティには、見る人が見れば分かる、あるいは評価できる人がいると余計見える、という面もあるようです。結論を先取りすれば、山下洋輔さんは、ある人の偶然の発見/発明を、きちんと言葉に拾い上げて評価し、分析し、位置づけたということなのです。 予期せぬ事象を、ワク組みを換えてでも新しく言葉化して位置づける評価者。カール・ワイクさんのいう「センスメーキング」に通じるものもあります。チームにはこういう名づけ親が欲しいですね。これが、ファシリテーション型リーダーの一面かもしれません。 ●チーム・セレンディピティ(ここでの造語)の追求!  駆け出しの広告代理店営業マンとして働いたとき、先輩のお供でクライアントと新商品販促会議の現場に立ち会いました。すでに話し合いは煮詰まりすぎて、膠着状態。なおかつ対象とする消費者ターゲット、商品コンセプトから、持つべき性能、それへの消費者の予想される反応、すべてが駆け出しの自分から見てさえバラバラでした。実はもう、商品見本も出来上がっていたにもかかわらず。  そこで先輩、「それではしょうがない。とりあえずこの商品を『ほにゃらか(特に実名を伏す)一号』と仮に名づけましょう。この『ほにゃらか一号』をどう売りますか?」と投げかけました。会議メンバーは皆きょとんとしています。一体どこから「ほにゃらか」なる言葉がでてきたのか。  ところがこの「ほにゃらか」に、みんなの意識が集中しました。会議が動いた。  結果としてはこの「ほにゃらか」は、別の商品のネーミングに採用され、「ほにゃらか」こそが別の商品の、想定消費者の満足を喚起するコンセプトであり性能そのものを表現するものである、となったのでした。ちなみに、そのとき会議で扱っていた商品は、「ホンジャマカ(特に実名を伏すが、『ほにゃらか』に近い名前)」となって世に送り出されました。  後になって先輩に聞いたところ、「まぐれ当たりさ。打ち合わせを続けてきて、『ほにゃらか』という言葉は考えもつかなかった。あの時なぜか口をついて出てきたんだ」と言っていました。それは他のチームメンバーとて同じこと。たぶん話し合いの間に各人が「無意識の準備」をしていた。そしてその時点では、なにかを新しく受け止める心の用意ができていた。だから「ほにゃらか」は、言葉としては唐突であったかもしれないが、なにかとんでもないものに躓いたような感じでいったん、次の次元にブレークスルーする契機として全員に受け止められた(つまり評価された)。ただし結果的には、別のお宝をつかんでしまった、というお話でした。  このように一個人においてだけでなく、話し合いの場やチームでの活動においても、セレンディピティを活かすこと、発見/発明を評価することができるとすれば、それを意識的に活かす方法もあるはずです。したがって話し合いの場での、偶然による察知力を活かした発見/発明もあるはずです。「おーっと、たった今、セレンディピティが発揮された瞬間でした!」という時を共有できるはずです。実にそれこそが創造的発見/発明、すなわち「創発」、これがチームや組織や社会関係におけるセレンディピティだと思います。  「社会関係資本を集める原動力とは、チームやコミュニティの構成員に未来を売ることにある」という時、この「未来」がセレンディピティ的な発見/発明であってもいいはずです。そしてこのセレンディピティの発揮を意識し、つねにその準備と用意を怠らないことが創発特性と呼ばれ、「生成的言説」発信の原動力になるのではないでしょうか。 <参考文献> 「偶然からモノを見つけ出す能力」澤泉 重一 角川書店/ウェブページ 京大・片井研究室より/「センスメーキング」カール・ワイク 文眞堂