第23回 ファシリテーション「七つの習慣」(下)事務局

●ファシリテートする側の「七つの習慣」 第一の習慣:専門家や専門職(という意識)にならない  ファシリテートする側がプロの専門家である必要があるでしょうか。  日本ファシリテーション協会の理念には、ファシリテーターが必要なくなる社会をめざそう、ということもありました。それは限られたプロのファシリテーターが必要なくなるように、つまりだれもが「しろうと力」「アマチュア力」を現場でファシリタティブに活かせるようになることですし、ファシリテーターという言葉じたいがなくなることも意味します。それは、ファシリテートする側がされる側を、上から下に見るようになってはおしまいという意味です。 第二の習慣:いつでも必ずそこにいる  ファシリテートする側が、その場から消えたりいなかったりしては話になりません。継続していく話し合いでは、「される側」からみると、「する側」にはいつでもそのとき・そこにいて欲しいと思います。顔をあわせないでおこなうメーリングリスト上での議論においても、いつもその人に見てもらっているという安心感が必要です。自分を振り返ってみるとそんな時ばかりではなかったなと反省しています。「まずは」いつもいる。それは、ファシリテートされる相手に、時間という価値を贈っていることになるのかもしれません。 第三の習慣:安易に共感しない  よく、傾聴、共感が必要だと言われます。傾聴は当然ですが、共感には少しだけ気をつけましょう。ファシリテートする側はカウンセラーでもセラピストでもありません。  ソーシャルキャピタル型ファシリテーターは、生半可には共感できないという、ヒトとしての自然な姿勢を保つべきだろうと思います。それよりはむしろ、「いっしょにやる」ことによって共に成長できればそれでいい、相手に集中することだけを考えればいい、という割りきりも必要なのではないでしょうか。共感や同情は人と人との関係を固定化し閉鎖的にすることもある、共感はあとからついてくる、と考えてみたいところです。 第四の習慣:安易に結論や合意に流されない  「自分ひとりではできない大きな仕事を、仲間と力をあわせて成し遂げる」には、多元的・多様なものの有機的な統一こそが「価値」であるという意味合いが強くあります。これをこのコラムでは、ファシリテーションは合理的選択のためだけのスキルではない、と捉えてきました。ここでのポイントは「結論/合意から、発明/発見へ」となります。生成的言説はそのための仮説言語ですし、仮説の持ち寄りがコミュニティの特徴だとすれば、すぐやみくもに合意形成やウィンウィン関係的な結論に向かうのではなく、その前にいったんコミュニティとしての連携の状態を推し量る必要があるのではないでしょうか。  ソーシャルキャピタル型ファシリテーターは、常に新しい価値の発明・発見への準備をしている。チームとその構成員が発明・発見に対し「無意識的に意識的」になってきたらそれを敏感に感じ取り、そして的確に評価し、卵の殻をつつく。これはチームに対するコンサルタント的な「介入」ではなく、親鳥メンター的な「エンパワメント」の役割ですね。 第五の習慣:安易な遊び心で仕事や社会と戯れる  社会的ジレンマとゲーム理論に触れる機会がありました。  有限回数のゲームでは勝つことが目的となるが、無限回のゲームではゲームを続けながら改革することも目的となります。わたしたちは、この社会の中で生活し仕事を続けていくかぎり無限ゲームのプレイヤーですから、多少の余裕が必要です。 たとえば年金問題では、いま年金システムを支えている人だけでなく、「まだ生まれてこない子供たち」にも話し合いに参加してもらえることも考えます。なに?そんなこと無理ですって?いやいや、そんな固いフレームワークの脳ではいけません。『まだ生まれてこない子供たち』だって人間だ。言葉を持たない人も参加できなければ。もっといえば、ファシリテーションと社会関係資本の話に、動植物や自然環境が入り込むことができないという法はない。『動植物や自然環境』だって人間だ。話し合いに応じる余地があるかもしれない。対話を可能にする手段を考え、対話で遊ぶくらいの気持ちを持ちたい。  遊ぶ・戯れるとは「ふと」や、「できごころ」や、「きざし」「ゆらぎ」を大事にする心です。「笑い」や「ノイズ」の容認です。生まれていない子供や動植物を否定してはつまらない。もちろん「恐怖のおじんギャグ」も。そのなかに、無限ゲームにおける部分最適を超えるなにかのヒントが隠されていることだってあるかもしれません。ビジネス現場で会議のつどご苦労なさっているみなさま、閉ざされた世界から出てノイズに耳をすませたり、戯れ心、遊び心に手を染める勇気をもつにはどうしたらいいか、考えませんか。 第六の習慣:結束型やたこつぼ型のチームにせず、開かれたコミュニティをめざす  ファシリテートする側は、チームの方々がそれぞれの「たこつぼ」すなわち安全世界から出てきやすくなるよう、支援します。これは創造的なコミュニティをつくる第一歩です。  「大丈夫です、こちらに出てきてください、いいじゃないですか少しくらい自分が変わっても、減りゃしませんし楽しいですよ。一緒に社会関係「資本家」になりましょうよ」などとうまいこと営業して引きずり出し、そのうえでお世話をする。  橋渡し型の社会関係資本家こそが、「みんなで」結果を出すコミュニティを作り上げていきます。できあがってしまった支配的信念(ワク組み)からメンバーを解放することが大事だからです。そういう姿勢が、価値についての新たな前提を作りながら変化していく対話への準備姿勢や、未来の夢とこれからの物語を待てる準備姿勢をメンバーの中に喚起していくことになるでしょう。 第七の習慣:公共の場、をめざす  どのような話し合いの現場にいるにしても、ファシリテートする側に必要とされるのは、そこを公共の場にしていくことではないでしょうか。これが私の一番いいたいことです。  公共の場にしていくとは、構成メンバーに共通する共有地はあるのか、そこではどんなジレンマがありうるのか、みんなで創る共有知はどんなものか、新しい発見/発明への心の準備ができるかなどを、話し合いや行動の「上位の課題」としてまな板の上にあらわにしていくことです。それはかならずしも目の前の課題解決に直結する場ではないかもしれません。したがって、「問題の原因」をあらわにするということよりも「問題そのもの」のリアリティを手で触れられるようにする、ということに重点がおかれることになります。  個々人が守っている「私」の場所つまり自分の家の庭から、「公共の場」つまり地域の公園に出てきてもらい、そのうえで自分の庭を公共に開放してもらうための方策が、ファシリテーションの技術なのだと考えます。そこで始めて「問題」がはっきりしてくる。そしてファシリテートする側の「中立性」「公平性」「共感力」「専門力」は、公共の場においてのみ生かされるものだと思うのです。 <参考文献> 「コミュニティ・オブ・プラクティス」ウェンガー他 翔泳社