第24回 ファシリタティブに生きる(社会関係資本の増加)松 ・・・所有?事務局

●個と全体の和解・・・「所有」から考える  エーリッヒ・フロムさんによると、所有の形式には二種類あってそれは、「受動的使用(消費)のための所有」と「能動的使用(生産)のための所有」なのだそうです。モノであれカネであれ資源であれ、それが個によって消費され私有され溜め込まれて死蔵されてはしょうがない。それでは個人の自己満足だけが残って他の人にはなんの役にも立ちません。それが消費というかたちで使用される所有物の弱点です。  ところで所有とは、『ある財をどのように用益あるいは処分するかについては、ひとりでつまり「わたくし(私)」が排他的に決定できるが、それが他者(社会)によって承認される必要がある行為(大庭健さんによる)』、と定義されます。自分で獲得した金・物品・情報・知識といったものだけでなく、自分の影響範囲内にあって使用できるものとしての「他人」「家族」「関係性」「評判」などもその対象です。あらゆるものが所有の対象になります。しかしそれが社会的承認つまり、まわりからその人のものだと認められる必要があるようです。  所有において「排他的」ということばが強くなると、個のなかで「自分のもの・私有物」という意識ばかりが肥大化し(占有)、あわせてその私有物を増やしたいという「所有欲」が増大し、それにひきずられて自分のものだけを大切にするという「(自分という)自我の肥満による金持ちA様症候群」にかかってしまう。これは感覚的に納得できます。  また、他者からの承認という面では、自分の行為と所有物の扱いに責任のとれる主体として認められた(自立)うえで、�家族兄弟などの親しい間柄では「感情」によって �友達や地域共同体などでは「内部ルールや規範」によって �広く社会や国のなかでは「法律や契約」によって、互いに認め合うという図式になっているようです。これもなんとなく納得できますね。最近では社会のグローバル化によって、インターネットなどの仮想空間上の認め合いというあらたな事態も起っていますが、これも�の範囲で理解できそうです。 ●機能をいかすこと、機能の交換  話を戻します。能動的使用(生産)のための所有とは、機能の所有のことをいいます。なになにをするために何何を持つ。何何を持っているのはなになにをする機能があるからだ。その機能をどう使って新しいものの生産に役立てるかが問題なのだ。必ずしもそのモノやコトじたいが必要なのではなく持っている機能が必要なのだ、という所有のしかた、あるいは姿勢のことです。  つまり所有物はすべて、それが受動的使用(自己満足の消費)されたりせずに、常に機能を活かして新しいものの生産に利用される準備ができていることによって能動的使用のための所有物となる。これを機能的財産といいます。一面、それは別のものに代替も可能な所有のしかたとも考えられます。カネやモノがなければ利用できるコトを探す。あるいは知恵を出す。知恵が出なければ人手でなんとかする。人のネットワークを使う。  利用の結果としての生産が目的なのですから、モノやコトの機能とその組み合わせさえできればいい、ということになりそうです。極端な話、手元になくてもいい。別の人が持っていてもいい。そのとき活かせる機能として所有物をとらえていくことによって自分の機能的財産群がつくられ、生産の自由度が増していくことになります。  この姿勢を持つことで、どんなものでも機能的財産として考えることができます。あたり前の話です。どうか「わらしべ長者」を思い出してください。  また最近のニュースによれば、カナダの青年がクリップ一個からはじめて16回目の「モノの持つ機能の交換」によって、ついには家を手に入れることができたそうです。その青年にとっては手に入れた家も受動的使用のための所有物(市場でお金に換える財)ではなく、たぶん「その場所でなにかの目的を持って暮らす機能という財」として考えられていて、一定期間利用され、やがて別のモノやコトの機能と交換されていくのでしょう。このような動きが広がると、個の所有するものと社会全体の所有するものが、能動的使用によって折り合い、また新たにつながっていくという循環が可能になるわけです。 ●開かれる「私」、機能の交換は価値の届けあい  プライヴェートな領域である自分の身体はどうでしょう。 自分の身体は自分だけが所有し、当然排他的(占有)に使用決定できてそれを他者は承認するのが当たり前、と考えられていますが、はたしてそれだけのものでしょうか。  自分の身体は、機能を生かして使われることによってようやく社会的に生きてくるともいえます。機能的財産の利用としての作法を身につけることによって、人と人とのつながりもできてくる。わが家の庭をご近所の方々に解放するかのように、自分と自分の身体が社会に対して開かれてくる。  ヒトの身体を労働力と捉えてそれを所有しようとするのが、資本主義ですね。ん、ここはマルクスってしまうとまずいかもしれませんが、市場で売買され消費される財産と考えるか、機能的財産と考えるかによって労働力という言葉の内容がかわってくるのは確かです。自分の労働や活動が社会の中でもつ意味合いが、搾取や疎外ということばでは考えなれなくなってくる。自分の身体なのだからどうあつかってもいいんだ、どういう売り方をしてもいいんだ、ということだけではおさまらず、「自分」も「自分の身体」も、社会で共有される時がある。つまり「私の身体」が開かれて、「共」になることもありえるのです。  地域通貨というものがあります。町内の一人暮らしの高齢者のお宅にうかがって一時間ほど世間話のお相手をし、さりげなく健康状態のチェックをする。そうすると、そのお年寄りからお相手お礼の1単位、町内会から見守りお礼の1単位の地域通貨がもらえる。この地域通貨はお貯金しておいても増えないので、今度は自分が、おとなりのお宅の娘さんにお留守番をお願いするときに2単位わたす。これは、自分の持つ機能の交換です。  この場合、機能をどう使って新しいものの生産に役立てたかというと、市場では交換の対象になるとは思わなかったものが機能として見つかり、人のつながりの中で価値ある活動として認められたということになるのでしょう。そうするとこの場合の機能の交換は、等価交換ではないし余剰の生産でもないけれど、互酬的な価値の届けあいに近い生産物として認められることになります(GDPには影響しませんけど)。  そして、さらにもう一歩内面に踏み込んで、ためしに「考え方・感じ方」というヒトの脳のフレームワーク自体も「私有・所有」の意味合いがあるのだと考えてみましょうか。ヒトの脳のフレームワーク自体にも、排他的であったり共用的であったり、あるいは他者の承認を受けやすいものや受けにくいものがあります。以前触れた「脳の機能」の特徴のひとつですね。各人の中に形成されている道徳や価値基準やそれらの暗黙の了解ほど、根強くはびこり壊れにくい所有物はない。逆にいえば能動的使用ができるかできないかによって、ヒトが所有する財産としての脳のはたらき(機能)の発揮も変わってくるのです。  私たちが「合意形成は難しいなあ」と思わず叫んでしまうとき、実は前もって存在していた所有の仕方とモノやコトの機能への認識、そしてメンバー個々の脳のはたらきというフレームワークを崩すのが難しい、ということが多いのだろうと思います。(つづく) <参考文献> 「よりよく生きるということ」エーリッヒ・フロム 第三文明社/「所有という神話」大庭 健 岩波書店