第25回 ファシリタティブに生きる(社会関係資本の増加)竹・・・共有?事務局

 情報や知的財産をみてみましょう。  情報や知的財産というものがその機能と役割をもっともよく発揮するのは、関係のなかでの共有すなわち「コモンズ的利用」によるのではないかと思いませんか。それらは、つながることによってしか生きる道のない財産なのです。生産のための能動的使用(生成的利用)によって生きもし、死にもするものです。それらを私有され消費される所有物として考えていると、成果だけを持っていってしまう利己主義フリーライダーが増えたり、○○ファンドのインサイダー取引のような「ひとりだけボロ儲け状態」が起きたりするのです。市場原理のなかでももっとも問題とされている格差助長状態ですね。情報や知的財産を、共有してその機能を利用する財産としてとらえてさえいれば起きないはずのことがなぜか起きている、そしておかしな格差が生まれてきているといっていいのだと思います。  したがって、情報や知的財産というものを使って社会関係資本を増やしていくようにと考えると、倉庫にしまいっぱなしの情報や知的財産を出し、その意味や価値という機能が変化することも恐れないという能動的な姿勢が求められることになるのでしょう。 このように考えることにより、実は情報や知的財産だけではなく他の「所有物」も、クリエイティブ・コモンズという公共空間がいちばの役割を果たしながら共有・参加・生産の場所となり、そこで機能的財産として特徴を活かされることによって流通し、財産/資本として増加していっているのだということが納得されるのです。  ヒトの脳のフレームワークも情報も、情報も知的財産も、そして人間関係も「所有」の仕方によって変わっていくと、身体と脳(精神)とを合わせた個人としての「私」も、社会のなかで変化し、拡張し、構成されなおしていきます。私たちが、「社会関係資本増加のために個と全体の和解をしていきたい」とか「行動に責任をとる主体としての個が、自我の肥満による金持ちA様症候群にかからないようにしたい」と強く思うのであれば、「私」は、所有の仕方と変化の仕方を変えながら開かれ、拡がっていくはめになるようです。 ●「私」の拡張から、「私たち」の拡張へ  人の集まりや組織も、身体・フレームワーク・人間関係・情報と同じように、開かれた所有の面から考える事ができる。つまり所有の考え方しだいで、「場」や「関係性」の特徴と変化を整理することができるようになり、人の集まりや組織についても情報や知的財産と同様に考えられるということです。それにより「合意形成」や「協働・共生」の新たな作法が見えてきます。私たち個々の機能的財産群が拡大すればするほど、「共有」の範囲が広がっていく。共有・参加・生産という「能動的使用のための所有」をする人が増えれば増えるほど、人の集まりや組織において「私たち」という言葉の持つ意味が、社会全体に向かって広がっていくのです。  これをコモンズ的な共有といえるのであれば、このコラムでは、会社のなかの学習する組織や、顧客とともに作るフォーラムとしての市場(いちば)も、公共空間としての共有地(コモンズ)として同様に考えられるのではないか、といってきました。機能的財産を拡大すればするほど、「自分だけの所有」の範囲が狭まり、「私たち」の意味が広がっていく。  協調行動を促進する「ファシリタティブな私たち」。持っている情報をつなげあう「ネットワーカーな私たち」。合意形成のプロセスを拡散させない「信頼と互酬性ある私たち」。活動においては財産・資産を能動的使用(生産)をする「共有する私たち」。未知のものとの出会いや新しい発見/発明への準備ができている「セレンディピティックな私たち」。そして、社会の中で暮らすときには個と全体の和解を目指している「みんなで成長する私たち」。 このようにしてタテヨコナナメに浸透していく「私たち」。「私たち」ということばの意味合いが社会のなかで変化し、拡張し、増殖し、構成されなおしていきます。   ●「私」「私たち」の拡張と、生きるリアルの増加  一方、協働でなにかをすることや目標形成や合意形成を阻害するものはなにかというと、「場」と「関係性」を生産する自由を阻害する、「権力」であるといえます。 「一緒に考え共同で行動する機会を奪い、ついには自分の殻に閉じこもる傾向の強すぎる狭量な個人主義(トクヴィル)」に人々を封じ込めるのが、権力や権威というチカラです。個人主義的な権力は私有としての所有が好きですし、「見る」ことのほうが好きです。限定された人だけとの信頼関係がお好みですし、「目には目を」的な規範が大得意なのです。  それは王様やマフィアの親分だけでなく、「話し合いのなかにいる困ったチャン」も「モーレツ会社人間」も「家庭内暴力をふるうヒト」も「社会的引きこもり」も、自分だけの所有から離れなれずタコツボ型の世界から出られないで「場と関係性」に鈍感な権力者になっている、という点ではこの狭量な個人主義に封じ込まれている人たちなのでしょう。 彼/彼女ら「個人主義的権力者」は、財産を私有し、消費し、「私たち」が拡がろうとする自由を制限することによって個と全体の和解を阻害している。「私」と「私たち」の意味合いをせばめた方が自己の利益が増大すると信じているのです。  しかし一方で私たちは、「私」と「私たち」の拡張によって自分の自由と他人の自由とを公共の観点から協調させ、「私」と「私たち」の機能を広げて、存在価値を高めていくことを目標にしたい。そのほうが未知の出会いや発見が多いから自分にとっても喜ばしい状態だ、ということをわかっているからです。  ふたたびハンナ・アーレントさんのありがたいお言葉で舵取りをしてみましょう。 「私たちが見るものを同じように見、私たちが聞くものをやはり同じように聞く他人が存在するおかげで、私たちは世界と私たち自身のリアリティを確信することができる」。  なるほど。でもなあ、「同じように、見、聞く」ということは難しいよなあ。どうやるんだ。そして「同じように、する」のはもっと難しいぞ。 もうひとつ。「多様な語りに出会うことによって新しい語りが生まれ、そうして生まれた新しい語りを多くの観衆がいるコミュニティが承認し、共有してくれることが、生きるリアリティを増加させる」。なるほど。しかしそれもまた難しいなあ。どうやるんだ。  個だけではなく、チームも、組織も、社会も、未知のものに出会う準備とその過程を通して成長するというその「準備姿勢」は、「私」と「私たち」の拡張によってつくられていく。そのとき、「他人と同じように、見、聞く」ことができるかどうか。「新しい語りをコミュニティが承認し、共有して」くれるか。まさにこの難しさへの挑戦がファシリテーションの課題であり、公共やコモンズという社会関係資本を増加させる場を作っていく際の真の課題でもあります。 アーレントさんは、自律分散型社会におけるファシリテーションというものへの、とても大きな宿題を私たちに残していった、といってはおこがましいでしょうか。(つづく)   <参考文献> 「アメリカの民主主義」アレキサンドル・ド・トクヴィル 岩波書店