第26回 ファシリタティブに生きる(社会関係資本の増加)梅・・・合意?事務局

 なぜだろう、と考えるなかで、「他人と同じように、見、聞くことは、難しい」という各種の社会的ジレンマやパラドックスの中にこそ社会的問題解決のカギがあるといえるのなら、合意形成という言葉を安易に使うことほど危ういものはないといえると思うようになりました。というのも、合意形成とはいつでも、「私化」「私有化」「占有化」される可能性を秘めているからなのです(きっぱり)。 ●調整的な合意  問題なのは、「合意形成」「全体最適」「ウィン・ウィン」という言葉にいやおうなく含まれている「調整的な合意」という部分でしょうか。そこには、 � 市場原理による、合理的な比較価値判断としての「妥協」 � 賢いと思われる方法での、賢いとされるヒトによる「分配」 � 権力というチカラによる、さらなる「所有(私有・占有)」 という三つの意味合いが排除できなくなります。 私思うにはこれらが、すべて全部まるごと「合意形成の私化・私有化」への動きなのです(きっぱり)。あくまで「調整的な合意」という部分だけですが、「他人と同じように、見、聞くこと」に関係してきますので、整理して考えてみましょう。  �については、会社人間にとっては常日頃経験している事態です。 儲かるか、効率がいいか、合理的か、はやいか、競争優位か、などの判断基準が求めら れる世界。商売の現場だけでなく社内会議でも個人主義や立場のパワー行使が横行することが通常のビジネスの現場では、その調整は「コスト」「時間」という価値に換算された契約や取引であるということが多いですね。それが、だれにとっても見えやすく比較しやすい価値基準だからです。そして、会社全体の利益とか、損して得取れとか、三方一両得などの合意にまつわるビジネス表現は、「(私的)所有物の妥協的配分」ということにほかなりません。決められた分量の所有物を、定量的な計算にもとづき、「お金や時間という、構成員に共通する尺度」によって配分とか調整などの作業がなされます。  それは合意形成が「市場原理」で動いているといえるかもしれませんし、お金や時間という便利な定量的尺度で、その場そのときの優位性を推しはかろうとする作業といえるのかもしれません。このとき、「合意」「全体最適」「ウィン・ウィン」という言葉の中には、合理的(対象との比較)・効率的(時間換算)・効果的(コストパフォーマンス、費用便益)などの基準が、大きな比重をしめていくことになります。  �についても、経験することの多いことです。公平、正義、平等という旗のもとに行なわれる自治会・町内会などの地域共同体の話し合いから、税の徴収と再分配において行なわれる公共事業などの行政サービスにおいては、会長や代議員や公務員という「賢い」と考えられる人たちが「賢い」と考えられるやり方(法律・条令・施行令・規定・規制など)によって、合意をはかる。このとき、「合意」「全体最適」「ウィン・ウィン」という言葉の中にはおもに、資源や財産の再分配の公平さ平等さ、部分最適と全体最適の融合、組織目標の追求や社会全体で実現されるべき正義、などが目標になります。  ところがふだんの生活実感としては、公平、正義、平等はそれら賢い人たちだけの価値基準であることもまた、多いのですね。メンバー共有の基準になっていないことが多い。  また民間企業の会議や事務改善のときなどに、「なぜ、を五回繰り返せ」ということがあります。なぜを繰り返すことによって問題の原因の原因、因果関係、本当の課題や改善点がみつかるのだ、という手法ですね。これはある面、「賢い人」がとる合意形成のやり方といえます。そこでは、結果にはかならずはっきりした原因があり、それを引き起こす原因があると考える。その因果関係を論理的に「見える化」していく。当然のことです。  ただ、私たちは時々、というか多くの場合にこの「因果関係のなぜなぜ連鎖」をあきらめて放棄したくなってしまう。それは、私たちが「賢くない」というわけではなく、自分たちが思っている合意や全体最適の感覚とどこかでずれているのではないか、と立ち止まりたくなるときなのです。その因果関係についてなんか変だと思うんだけど、理由はうまく説明できない。なにかを考えないことにすることによって無理やりなぜなぜ連鎖をつけているような気がする。そんなとき、決定されたことに対してリアリティを感じたり、納得したり、腑に落ちたりできず、疑いを持ちながら安心できない状態が続いてしまいます。 ●調整的な合意では、権力には気をつけないと  さて最後の�の「権力」が、表面には現われにくいのでやっかいです。��のなかにも権力はありました。国・自治体レベルで「公権力」として現われる場合もあるし、「賢い人」として現われるときもあるけれど、「困ったチャン」としての「あの人」「この人」として現われたりもするからです。 国の制度をうまく動かすとか地域の安全や会社の存続をはかる、などという大目標がある場合には、部分最適よりも全体最適が優先されて調整がなされる。そのときの全体最適の論理構造は「権力」に近いものです。「困ったチャン」が困るのは、ひとつには、(自分の考える)公正・正義・平等や、(自分の考える)国家や地域や会社、などの大きな論理によりそった考え方をしているからでもあります。  「賢い人」がもつと思われる能力に「分析力」「概念化力」「判断力」などがあるとすれば、「賢い」イコール「学歴やキャリアに優れている」イコール「官僚」として認められるときや、「賢い」イコール「マネジメントやリーダーシップに優れている」イコール「管理職や経営者」と認められるときもあります。それは、能力は自立した個人の所有物であるとされ、ほとんどそれだけによって調整や合意が図られていくことを意味します。  これが実は、個の持つ能力が、生成され活かされていく機能として考えられずに、固定的で動かしようのない権力として捉えられている例なのですね。(つづく)