第27回 ファシリタティブに生きる(社会関係資本の増加)並・・・世話の倫理?事務局

 どんな話し合いの場においても、構成員のそれぞれが個人的に自立・自律していないと基点のわかる意見にならない。市場原理が優先するビジネス社会では、あたりまえです。はっきりした立場と明快な価値基準での意見が出てこないと、ファシリテーターは抽象的で感情的な議論(空中戦)に巻き込まれて苦労するし、時間ばっかりかかる。ファシリテーターは話し合いを具体的な行動軸や時間軸にのせていくために、すなわち地上戦に持ち込むために、意見の基盤になっている責任ある個々人のフレームワークや考え方のクセや作法などを明るみにだしていくことに力を注ぐわけです。それが「場を整える」とか「プロセスに介入する」などとよばれるテクニックの一部ですね。 なぜならそれは、なにを目的にして、どういう段階での価値基準をもとにして、どのレベルの合意形成をめざすのかにかかわり、合意形成した結果については全員で最適と判断され、いわば正義の名のもとに正当化されたと捉えられ実施される、論理的・合理的・効率的な判断であるべきですから。  さて一方、ボランティアやアソシエーションの活動や、クリエイティブなコモンズや、生成的なコミュニティなどにおいては、これとは少し違った価値も大切にされていることに私たちは気がつきはじめました。  それは、キャロル・ギリガンさんという方の表現によると、「世話(ケア・心くばり)の倫理」とよばれるもので、おもに他者との相互依存性やネットワークに重きを置くものです。この「世話(ケア・心くばり)の倫理」では、�自己犠牲としての善良さ �自他の相互性と応答性 �世話と責任の相互性、などがヒトの行動特性になっています。 「世話の倫理」が、ハンナ・アーレントさんのいう「他人と同じように、見、聞く」「異質な他者との共存・共生」という「公共性」の概念、そしてこれまで述べてきた「能動的使用(生産)のための所有」や「機能の相互的な交換」という考え方、そしてまた、社会関係資本でいう「一般的信頼」「互酬性」「規範性」、にそれぞれみごとに対応しているので驚かされます。社会関係資本の三点セットは「世話の倫理」の主張にきわめて近いといえるのです。  正義の倫理とは異なるこの「世話の倫理」には、正義の倫理からすると評価しにくい要素である、「比較しない」「効率が悪い」「物分りが悪い」「方向性が決まりにくい」「ノイズが多い」などをも大切にするという特徴があり、話し合いでは「他者の尊厳をおもんばかる」「共感や思いやりを基本にもつ」「共通の善(公共善)という目標がある」「人を助けることをまず考える」「人との結びつきを生成・生産する」などの行為によって問題解決をはかろうとする特徴があります。  正義の倫理で大事にされていた、自立した個人どうしによる「自己決定」としての意思とそれによる調整的合意にかわって、より協力的な人間関係を優先させることによって社会的な合意をめざそうとするのです。社会的ジレンマとして現われてくる複数の主張、つまり権利と権利の葛藤を調整することよりもむしろ、「それらを善良さや相互性などで包み込もうとする態度」が大事にされる。 誤解を恐れずにいえば、母性的な姿勢とでもいえるのでしょうか。自立した個人として「個の確立」をめざす過程で合意をめざすのではなく、他者との関係を培っていきながら、支え合い的で生成的な判断を大事にします。 (ひとこと、ここでいう「世話」について補足しておきましょう。私は「世話」を「支援」と同義語として扱います。「世話」「支援」は、A.直接お助けするという意味のヘルプ、エイド、アシスト B.少し間接的な意味合いでの、サポート、バックアップ、ホールド、ケア C.もっと広く、心くばり、シンパシー(共感)、エンパワメント(ちからづけ、自律支援、権限委譲)、アドボカシー(権利擁護、政策代言) などの意味を含みます) ●アーレントさんの宿題への答え  したがって、世話(ケア・心くばり)の倫理において「合意」「全体最適」「ウィン・ウィン」という言葉が使われるときは共通の論理という基盤ではなく、いつ、どこで、だれが、なんのためにという「場」の性格がよりはっきりしていなければなりません。一般的な規則やら法律では動かないのですね。  世話の倫理による場の性格とは、空間(やや強引ですがアリーナ)として、そこが共有地・コモンズになっているのか、演者観客の別なくみんなが「する」になっているか、機能的財産をどのように使うのか、などがはっきりしていること。また、目的・文脈(まあ、コンテキスト)として、どんな協働体制をめざしているのか、メンバーの多様性を担保できるのか、新しい発見/発明への準備ができているのか、この行為は私たち自身で持続し継続させられるのか、などがはっきりしていること。そしてその関係性(ものすごく強引ですがエシック)では、他者の尊厳をおもんばかり共感や思いやりをもっているか、どんな機能の交換がされるのか、などのことです。正義の倫理による場の性格と異なるのです。  いつでもだれにでも使用に耐える普遍的な論理や基準は、通用しにくい。こういう場でなければいけないという基準はない。そのつど、そのときごとに基準は変化して当たり前である。なぜなら、世話(心くばり・ケア)の倫理を支える基準は、自分やいま目の前にいる相手だけでなく、「他者」や「みんな」や「今いない人」のニーズだからです。「(メンバーの)ニーズに対する想像力」といっていいのかもしれません。メンバーはだれなの?からはじめ、そのニーズはなんなの?を考える。その想像力によってようやく、「個と全体がどういう和解と調和を図るのか」ということを考えはじめることができ、調整による合意ではない、「個と全体の調和」による合意という姿があきらかになっていくはずです。  私たちが所有物を共有地で能動的に使用するという場合には、合理的や効率的ではないかもしれないけれど、私たちが、メンバーであるはずの人たちとともに未来にどんな物語を描こうとしているのかを大事にする、という姿勢がどうしても欠かせないのです。  たとえば、このコラムで宿題になったままの『年金問題』を議論するためには、当然「今いない人・これから生まれてくる人・今後メンバーになる人」のニーズに対する想像力が必要とされます。難しい言葉では「世代継承性」という表現を使うそうですが、私たちにはなかなかリアルに想像できるものではありません。そのニーズとは、私たちと、メンバーであるはずの人たちが未来にどんな夢や物語を描くのかということそのものであり、その夢や物語がみんなに承認され、共有されるかどうかにかかっている。「今いない人・これから生まれてくる人・今後メンバーになる人」への世話(ケア・心くばり)はできるか、どのようにその人たちを観衆として集め「私たち」の仲間に入ってもらえるか、を考えるときにようやくあきらかになっていく「(今メンバーである)私の作法・私の問題」なのです。このように、自分の生き方が、なんと未来の年金の受給額を変えてしまう。  多様な語りに出会うことによって新しい語りが生まれ、そうして生まれた新しい語りを多くの観衆がいるコミュニティが承認し、共有してくれることによって生きるリアリティを実感できるのではないか、というアーレントさんの宿題に対し、私たちはこう回答を寄せることができるようになるかもしれません。 「リアリティを強くは感じられそうにない『年金問題』のような課題においても、ファシリタティブに考え生きることによってそれを成しとげるつもりだ。世話(ケア・心くばり)の倫理でメンバーを広げ、多様な語りに出会い、新しい物語を作り出し、そうして生まれた新しい出し物を多くの観衆が見て、一緒にやってくれるようになることによって」と。(つづく) <参考文献> 「もう一つの声」キャロル・ギリガン 川島書店