ビジネスマンや経営者にとって、フランシス・フクヤマさんの言葉になじみの方がおられるかもしれません。
「信頼とは、コミュニティの成員たちが共有する規範に基づいて規則を守り、誠実に、そして協力的に振舞うということについて、コミュニティ内部に生じる期待である。」
日本企業では伝統的に、従業員への「信頼」が強く、とくに終身雇用制というワクのなかで「高信頼企業」を形成してきた。そのために、たとえばトヨタのように、末端のラインを担当する人たちへも権限委譲が進むなど、生産性や効率の向上にいい影響を与えてきた、それが企業の発展に大いに役立ったのだ、としています。安定し
た組織を前提にした、どちらかというと、上から下への期待効果ですね。
●二つの信頼
一方、社会学者の山岸俊男さんは「信頼」を二つに区別しています。
� 相手の能力に対する期待としての信頼。これは、「あいつは、やると言ったことをちゃん と実行する能力を持っている」、という信頼。
� 相手の意図に対する期待としての信頼。こちらは、「あいつは、やると言ったことをやる 気はあるし、間違った方向には向いていない(しかし実際に実行できるかどうかは分から ない)」、という信頼。
その昔、長島茂雄さんが巨人軍の監督だったとき、「あの選手については、『信頼』はするけれど『信用』はしない」という名言を吐かれました。そのとき私は、いったいその二つはどう違うのだろうと深く思い悩んで、辞書をひいた記憶がありますが、いまとなっては分かります。そのとき使われた「信用」は�の意味、「信頼」
は�の意味と解せばよかったのです。
つまりあえて翻訳すると、「あの選手は、やろうとしていることもその努力もプロセスも正しいと判断されるが、試合の中で我々管理者が期待しているような結果・アウトプットが出せるかというと、残念ながらその確率は低いと言わざるを得ない」、という意味だと思います。
●重要! 一般的信頼が社会関係資本を増やす
山岸さんが強調していることに、「限定的信頼(あるいは情報依存的信頼)」と「一般的信頼」ということがあります。これこそが、最重要です。山岸さんは様々な実験を行なっていて、書物にまとめられているので、ここでは結論だけいただくことにいたしましょう。
「一般的信頼」は、具体的な特定の相手に対する信頼の強さではなく、他者一般を信頼する傾向がいかに強いかということ。「限定的信頼(あるいは情報依存的信頼)」は、特定の相手に関する情報(人格、行動、考え方など)を利用して行う相手の信頼性を判断すること、いわば人格的信頼の強さのこと。
社会関係資本を増やすのは「一般的信頼」のほうである、としていきましょう。
一般的信頼を多く持っている人は、人からの「信頼性」も高く、新しいつながりを作りやすい。その結果、新しいネットワークを生かして、また新たに信頼性とつながりを築いていくという好循環ができる。これが社会関係資本の蓄積です。いっぽう、「限定的信頼」の強い人はどうでしょう。自分の身の回りの家族とか親戚とか、あ
るいは付き合いの長い友人や、いっしょに過ごす時間の長い会社の同僚には厚い信頼を寄せます。しかし、知らない人との新しい付き合いには、臆病な面があるかもしれません。
●信頼と安心
山岸さんによれば、限定的信頼に頼る人の求めているのは、実は信頼ではなく「安心」なのだそうです。南イタリアの例やマフィアの例を考えると納得できますね。その、限られたネットワークの中では、強い絆と信頼関係によって結ばれていて自信を持って行動しているが、ひとたびその世界から離れると、他人・他者一般を信用で
きないことが多い。身内をひいきしがちで、他人を見たら泥棒と思っておいたほうが無難だと思っている。いわば内弁慶タイプの人たちです。
このタイプの人たちは、コミュニティ外部の人と仕事をする場合、保証になるものを求める傾向があります。ルールとか、契約書とか権威とかお上とか前例とかに依存することが多い。すると、その時点で必要以上の経費(手間ひま)を使ってしまうこととなり、全体としては効率性を低めてしまいがちです。内部における「安全」と
、外部に対する「臆病」とが同居しているわけです。これはなにもマフィアに限ったことではありませんよね。私たちが勤めている会社や組織では、多かれ少なかれ、この「安心」指向があるようです。これが「結束型」コミュニティやそこに属している人が、外部とおつきあいする時の特徴です。ですから、先にあげたフクヤマさんの言葉は、もしかしたら「安心による期待」の定義なのかもしれません。
●安心指向を壊す!
みなさんのまわりにもいませんか。
内部の会議では大きい声で発言してやけに元気だけれど、外部の人との会議だと意見を言わなくなってしまう人。会社の部下とのノミニケーションは得意だけれど、マンション管理組合の会合では奥様方に村八分になっている部長。毎日外を飛び歩いているはずなのに、会社内部のあらゆる人事情報に通じている営業マン。きっとこの
「安心」指向なのでしょうね。
話し合いを進めるファシリテーターと呼ばれる方は、まさか「安心指向」や「内弁慶」ではありますまい。意識しているいないに関わらず、構成メンバーの方たちとの「一般的信頼」関係を作り上げようとしているのではないでしょうか。自分が関わるチームやコミュニティで、「限定的信頼」に偏った人間関係ができあがっていたり、「結束型」で「たこつぼ」にはまった状態になつていたら、何とかして一回それを壊そうとしているでは
ありますまいか。
チームの構成メンバーが、同じ価値観を持っているという前提でお互いを頼りすぎたり、アウンの呼吸だけを頼りに仕事をしていたり、あるいは落しどころを考えて会議で発言をしたりしていたら、そこには「安心」の原理は働いているが「一般的信頼」の原理が働いていない、と判断してよいのでしょう。ああ、自分で書いていて耳が痛い。
<参考文献>
「安心社会から信頼社会へ」 山岸俊男 中公新書
「信頼の構造」 山岸俊男 東京大学出版会
「『信』なくば立たず」 フランシス・フクヤマ 三笠書房