第5回 社会的ジレンマという難問登場!事務局

 ジレンマの研究は、簡単に言えば、一方にとって利益になることが、もう一方もしくは全体にとって不利益になるような場合、人はどう行動してどう解決していくのだろうかの研究です。たとえば「共有地のジレンマ」では、村の共有地で、ひとりの農夫だけ牛に草を食べさせると、ゆくゆくは村全体が疲弊してしまいます。どうすればいいだろう。囚人のジレンマでは、両方とも自分だけの利益になる行動をとると、両者共倒れになっています。なにか解決方法はあるのでしょうか。 ●たとえば年金問題 今の時代は、社会的ジレンマにあふれています。  ひとつの例は「年金問題」。年金の考え方にはもともと、世代間で必要な資金を融通するといった互助的な色彩がありますよね。働ける世代が、収入の一部を掛け金として基金に預ける。働けなくなった世代は、基金から給付という形で決まった金額を受け取る。  でも、働いて収入があるうちは、お金は受け取らない。昔の無尽講などと共通する部分を持っています。違うのは、日本政府がシステムとしてそれを保証し、基金を増やす運用努力をする、というところです。形だけからいうと、外国にはない日本独特のシステムのようです。  これが崩れた。一方で加入率が減り、一方では主催者の出す運用益が減り、契約上の掛け金と受け取り金の比率が、変わってしまったのです(もともと契約ではないのですが)。こういうとき、人はどう判断して行動するのでしょう。  ひとつはっきりしているのが、システムとしての信用がなくなると、人は、よりいっそう自分の利益を優先させます。掛け金を払うより、自分で貯金する。あるいは、他の金融商品に投資して、老後の資金を自助努力でまかなおうとします。  そういう人の割合が増えれば増えるほど、当初想定していたシステムの維持がますます不可能となり、基金の運用益を出すことがさらに困難となり、もう一段階、掛け金を上げ、受取金を下げるしかなくなります。こうして、コモンズ・共有地としての社会システムが、成り立たなくなっていく・・・。大変怖い社会的ジレンマの例 ですね。 ●問題解決の基本的姿勢  前回述べた互酬性の考え方には、「時間はかかっても、様々な社会的ジレンマを解決していこう」という基本的な姿勢があります。決して自己犠牲や、一方的な「何々してあげる」ということではなかったですね。種々の社会的ジレンマ解決法を模索するとき、話し合いのひとつの方向性としては、ここから始めることもできるでし ょう。   この年金問題でいえば、日本政府やお役所に解決を任せず、まずは世代間や職業間、そして地域間といった利害関係の当事者が直接話し合う、というやり方です。 ●話し合いで生まれる価値   話し合いのなかでは、ジレンマの解決が求められていることが多いのです。突然ですが、ここでちょっと視点を変えて、話し合いや会議の成果を市場経済の観点から考える、という乱暴を働いてみます。   市場経済の基本は、   �情報を伝達する   �利害を調整する   �資源を効率的に配分する というところにあるといわれています。このプロセスの中で、アダム・スミスの言ういわゆる「見えざる手」が働き、需要と供給のバランスにおいて「価格」という情報にすべてが集約されていく。最終の価値基準は価格です。  ところで、私たちが通常行っている話し合いはどうでしょうか。そこで行われているのは、互いに持っている情報を伝達し、利害を調整し、資源を効率的に配分するための意思決定を行うということをみれば、市場経済の論理が当てはまるものばかりのようです。   ただしもちろん、実際の会議会合のなかでは「あいつのことは嫌いだからあいつの意見には反対だ」とか「上司が方針を決めてかかっているから、意見を言ってもムダ」とかいう、「非・社会関係資本的」場面は、しょっちゅうですけど。 ●市場経済的な話し合いの「成果」  話し合いがうまく進み、資源を効率的に配分することが可能になれば、その成果は、会社の業績や町内会の円滑な運営という、経済価値に換算できるものとして現れてくることは明らかです。つまりここで一回、社会関係資本が、すなわち「社会全体の効率性を高めるもの」としての「個人の協調行動を起こさせる社会構造や制度」 が、生まれるときです。需要と供給のバランスに近い感覚で、「なんだ、みんなの得になるのだったら、それを実行しようじゃないか」となりますね。   逆にそれが理解されていない時、どうもおかしいな、なにか違うなという感覚がみんなに芽生えてくるのでしょう。そのときは、「とりあえず、自分の得になることをしておこう」と思って行動する人が多くなります。  となれば、ジレンマを扱うとき必要なことは、市場経済の原理が働く集団行動においては、効率性や有効性という経済面の成果をあげるために、協調行動のみちすじをつけることといえるかもしれません。そして、市場原理でだけ考えることができれば、話し合いの成果や、その結果としての便益が、時間やお金といった経済価値に 換算され、評価基準が明らかになります。それが話し合いメンバー全員に理解されて、合理的に損得勘定が納得されれば、ジレンマの解消にかなり役立つことでしょう。  市場原理と似たことが、個人主義の確立を論じるときにも言われることがあります。  個が確立されて、個人としての自律性が強まれば強まるほど、その個人の社会性が確立していくという、西欧型の個人主義論です。それぞれが個として自律し、自分の利得を合理的に判断していくほうが、予想外の事態が起こりにくい。その見通しが社会的信頼をつくりだし、結果、「見えざる手」があらわれやすいのだ。  この考え方はゲーム理論の前提にもなっていて、ゲームのプレーヤーは、   �それぞれが合理的に判断する   �それぞれは孤立している   �互いのコミュニケーション手段がないか、少ない、 というケースが想定されることが多いようです。その上でゲームのルールが作られ、解決策が提案されていきます。個人の利得を中心に考えた、社会全体の効率性や協調行動の追求、といえるかもしれません。  でも、ちょっと待ってください。話し合いの成果や結果は、すべて市場経済的に、そして個人主義をとおしての判断基準がなければ、評価できないものでしょうか? 「すべてを損得勘定で計っていいのか?」「人や社会に役立つ気持ちや思いをどう評価するのだ」「公共的事業は合理的に評価できるか」などといった疑念がでてきませんか。ほかになにか、ジレンマ対策で考えておくべきことはないのでしょうか。