第7回 続いて、社会関係資本と価値の交換という難しい話になります事務局
改めて、話し合いや集団行動において交換される「価値」について考えてみたいと思います。家族や緊密な職場のような安心の場からいったん離れて、「他人や社会に役立つことをする」「便益を与える」「話し合いの成果をあげる」というとき、それはいったいどういうことだろう、ということです。それはどういう価値をさしているのか。
「価値」が、構成メンバーに共通に理解されそして、価値として生かされる工夫が継続されない限り、社会関係資本という言葉を使って、協調行動とか、社会・経済の活性化などという大きなことは言えません。これからは、資本としての蓄積、利用、交換という時の、「価値」の捉え方、そして、構成メンバーの意識変革も大きなテーマとなってきます。
●ある、価値の交換例として
「ボランタリー経済の誕生」という本に、みなさんよくご存じの、日本昔話にでてくる「わらしべ長者」の話がひかれています。
貧しい男が、「最初につかんだものを大事にしなさい」という観音様のお告げを信じ、ころんだ拍子にワラをつかむ。そのワラで虻を縛り付けて歩いていると、ある若君が、回っているワラが面白いから換えてくれという。ワラと換えたみかんは、のどがかわいて困っていた女房が布と交換してくれた。このように布が馬に換わり、馬が稲田に換わっていきました。貧乏だった男は、わらしべ長者と呼ばれるようになりましたとさ。交換のたびごとに、その価値(経済価値)が大きくなっていったのです。
おもしろいことにここでは、価格価値は、扱われていないのです。わらしべ長者は、市場経済での金銭による等価交換ではなく、まったく別の価値の交換のすえ、結果的に長者になったのです。
価値とされたものは、「(若君が感じた)虻が縛り付けられて回っているワラのおもしろさ」であり、「(女房の)疲れを癒すために、今ここで必要としている水分」であります。わらしべ長者は、「今、そのとき、たまたま持っていた」モノの、「今、そのとき」の便益・有用性によって新しい関係性に入っていったといえます。前から持っていたものでも、暮らしのための商売として用意していた金銭やサービスでもないのです。その時、たまたま持っていたものが、たまたま、その時だから生かされることとなった、それだけの話です。しかし、これを観音様の教えと言わずになんとしましょう。
●「価値」や「便益」は、交換され増幅されていく
現代では、はっきりと金銭価値に換算できる商品サービスはどのくらいあるのでしょうか。皆さんは疑問に感じたことはありませんか。それが今手に入るなら 100万円出すが、明日ならタダでもいらない、というケースもあれば、他人にとっては0円のものでも自分にとっては100万円のお宝だ、ということもあります。
また、消費者は、商品やサービスを「購入する」「消費する」という考えから、「状況にあわせて利用する」という意識にかわってきています。商品価値の絶対性が、くずれているのではないでしょうか。もっといえば、ユーザーが商品やサービスをメーカーと一緒に「共同開発」して、自分に合わせたものとして使う、という方法も行われているところです。(これが本当のユニヴァーサル・サービスかもしれませんね)
●価値は、共創経験・協働体験に応じて決まる
「価値共創の未来へ」という本のなかでは、それをこう表現しています。
「一人ひとりの消費者がどれだけの金額を支払うかは、共創経験に応じて決まる」
なかなかいい言葉じゃないですか。もう少し引用しますと、消費者を共創パートナーと定義した上で、「消費者は、コンピタンス・ネットワークの一部として位置づけられ、価値共創で企業と協働する一方、価値の獲得をめぐっては競合する。市場は共創経験を生み出すための『フォーラム』である」。わらしべ長者は、知らずしらずに、共創経験の当事者となっていたのです。
マーケティングや商品企画のご担当者は大変ですよね。ユーザーとともに「共創経験」やユニヴァーサル・デザインを作りあげていかなければならないし、ワントゥーワン・マーケティングだの、ウェブでファンサイトを作るだの(これは社会関係資本だ)、主婦や女子高生の方々のクチコミ(これも重要な社会関係資本だ)も大事にしなければならない。今の時代は、そうでなければ、価値の共創ができないかもしれません。なおかつそれは、長期計画にのっとって作るというよりは、その場に適したものを、そのつど作っていくという姿勢が求められているようなのです。
事件は会議室で起こっているのではなく、常に、今ここ、の現場で起こっているからです。(これを「踊る大捜査線」における現場主義、と名づけたいと思います)
ここが価値や便益を考える上で、難しいところだと思うのです。大事なのは、「経験や体験」を共有化すること。協働して創りあげていくこと(「創発」と表現なさる方もいます)。これから具体的に考えてみたいと思いますが、たとえば「ファシリテーションは『プロセス』を大事にする」と言う場合には、話し合いプロセスを体験として共有化することそのものが、「体験価値」としてマネジメントされなければならないのでしょう。
これをさきほどの表現を借りて言えば、話し合いの場は「各人がコンピタンス・ネットワークの一部として位置づけられ、価値共創によって協働する、共創体験を生み出すための『フォーラム』である」と、なりますでしょうか。ひとこと申し添えれば、「体験価値」の基準とは、もしかしたら「気持ちイイ」「キモイ」「風流じゃ」「クールじゃん」「ヲタっぽい」「ヤバイ!(おいしい)」などという表現が、使われるのかもしれません。
「わらしべ長者との話し合いの成果? あれヤベェよ!」、いかがでしょう?
言い方をかえると、価格と違って長い目で見た市場経済の調整機能(神の手)が効かず、今でなければ意味を失うような体験価値を、そのつど大切に拾い上げて積み重ねていくことが、社会関係資本では重要視されることになる、ということかもしれません。どうかこれを「せつな的」と呼ばず、「『踊る大捜査線』における現場主義」と呼んでくださいね。
<参考文献>
「価値共創の未来へ」 プラハラード/ラマスワミ ランダムハウス講談社
「ボランタリー経済の誕生」 金子郁容・松岡正剛・下河辺淳 実業の日本社