第8回 活性化した組織・コミュニティでは、価値はどうとらえられているか事務局

�自発的参加:まずは人々が自発的に集まってくる。それがコミュニティの端緒となる �情報供出 :集まった各人が「サムシング」を持ち寄り、情報提供と交換をする �関係変化 :それによりコミュニティの何かが変化し、新しい関係性が出現する。          それまで互いを知らなかったり、対立していたり、にらみ合っていた組織や          個人が、そこで新しい関係を結んでいく �編集共有 :やがて何らかの具体的成果が上がり、参加者が「ある方法」を共有していた          ことに気づく �意味創発 :それによって各人は未知の意味を発見し、また新たな動向が次々に誘発          されていく ●金銭価値には換算できない価値の交換(個人としてのお役立ち感)  私はここに、金銭価値にすべてが集約される市場経済下での価値交換とは異なる、社会関係資本としての価値交換が表現されていると感じます。以前のべた、市場経済的な話し合いの原理やゲーム理論の前提とは、まったく異なりますでしょう?なんだか、新しいものが生まれそう!  持ち寄る情報は何でもいいが「自発的に」、ということはつまり、自分の意志で直接の報酬を期待せずに持ち寄る。交換は、必ずしも金銭的な等価交換とは限らない。重要なのは、持ち寄った情報が「今」「だれかの」「何かの」役に立つのではないかという期待と、「いつでも」「誰にでも」役立ててもらってかまわない、という互酬性。これは、個人の側からすると、「お役立ち感」としてとらえられるかもしれません。そして、それらの成果としての新しい関係性であり、そこでこそ「一般的信頼」が生まれ、また、そこでしか新しい意味は作られない、ということだと思います。  大切なことは、交換される価値が、「そのときの関係そのもの」であり、「そのときの方法」であり、「未知の意味」であったりすることです。ただし、それが達成されたからといって、そこに安心して安住することなく、活性化された組織・コミュニティのメンバーは、新たな局面に向かっていきます。 ●組織からコミュニティへ、「人のあつまり」からコミュニティヘ(お役立ち感の交換)  ひとつ補足をします。  ここでは「組織・コミュニティ」と並列で表記してきましたが、本来は異なるのでしょうね。自発性や持ち寄りが、コミュティの要件だとすれば、(会社のような)組織や(公園問題の周辺住民の)単なる人のあつまり、は、コミュニティに進化することによって活性化がはかれる、という言い方ができるのでしょう。逆に、単なる人の集まりであったものが、コミュニティとして立ち上がり、そのなかで組織として固定化していくものがあるのでしょう。その中でも、どこといって安心や安住することがなく、固定化・硬直化した価値や意味にはこだわりの少ないことが、「活性化したコミュニティ」の特徴だともいえそうです。   そしてそこでは、必ずといっていいほどお役立ち感の交換が、行なわれているはずです。 ●日本の伝統的なお茶会は、どんなコミュニティ?   伝統的なお茶の世界においても、活性化されたコミュニティとはどういうものか、をみることができます。  近代茶道の祖とは、いわずと知れた千利休です。利休さんは、茶会のありようをだんだんと変えていきました。もともとは公家や武士の宴会のようなものでした。それを、茶室の中に入るときは、刀をはずすようにし、人数も少なく限定しました。いわゆる「侘び茶」の世界の誕生です。  それまで大名たちは、信長や秀吉に人質を差し出し、あるいは姻戚関係を結ぶことによって「安心の関係性」を築いていました。ところが、利休の茶会ではそれが根本的に変わってしまいます。そこで何が重要とされたかというと、ひとつにはメンバーどうしの「一般的信頼関係の構築」でした。なにせ、普段は戦争をしあっている大名が刀をはずし、毒殺の危険も顧みずお茶を回しのみし、大大名も小大名も平等で、自分の五感と判断力だけを頼りに集うわけですから。  徹底的に個人主義・実力主義だった戦国時代に、「一般的信頼」を生みだそうとしたのです。  そして二つ目には、亭主(茶会主催者)と客との、その場その時の「おはたらき」でした。どういうことかというと、その日に集まる人は一期一会。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。そのようなメンバーが互いのことを慮りながら、主客が共同で最高の茶会にしたてるという「共通目的」に向かって、その場でいろいろな工夫や気遣い(おはたらき)をしていく。「サムシングの持ち寄りと情報交換」です。互いの「おはたらき」が、「互酬性」をかたち作りますし、固定化・硬直化した価値や意味(たとえば、単なる儀式儀礼としての作法など)を乗り越えていきます。  その先の、「何らかの具体的成果」「参加者の方法の共有」、「未知の意味の発見」「新たな動向が次々に誘発」などの段階は、その茶会と参加者の評判アップ (茶会としての社会的評価、参加者個人の力量評価)、使われた道具の経済的価値の向上、あるいは、外交折衝としての政治的成果(仲裁、合意形成、契約締結)、などと読みかえることが可能ですが、ここではあまり深入りしないでおきましょう。   いいお茶会は、それ自体がコミュニティとしてうまく回転し、新しい価値の創出をしながら、人と人とを結びつけていくのです。 ●簡単には理解されない「新しい価値」、単純明快さが求められる「便益」  「・・・いくのです」と断定したのにはわけがあります。皆さんご存じのように、利休は秀吉に切腹させられてしまいますが、どうでしょう、時の権力者の立場から見て、自分の足元でこのような「活性化されたコミュニティ」が活動していたら、困惑しますよね。  ましてやそこで、自分の知らない「新しい価値」なんぞが誕生していたりしたら、経営者の政策の足元をおびやかす反逆、とはいわないまでも手に負えない動き、と捉えませんか。だから、利休は秀吉につぶされてしまいました。目覚しい成果の出たプロジェクト・チームやクロスファンクショナルチームが、時によって経営者(固定化した組織の維持管理者)から煙たがれたりするのと、通じるところかもしれません。  利休以降のお茶の世界では、これに懲りて茶室では政治やお金の話はいたしません。モノや価値に対するこだわりや執着心についても、これを捨て去る禅の境地が良しとされるようになります。ただし、一座建立、一期一会はその意味をたいせつに問われ、今・ここでの人と人のつながりは、もっとも重要な価値として認識されているのです。  ところで、お茶会の一番の目的、すなわち便益は、「みんなで、おいしいお茶を飲むこと」その共通体験そのものです。まったく簡単で単純なことでしょう? しかしこれは、緊張感あふれる「お役立ち感」の実戦勝負です。そして主催者としての亭主は、その簡単で単純なことのために多くの準備と工夫をし、リスクに備え、お金と時間を費やし、「気持ちイイ」や「風流じゃ」の実現につとめます。それほど簡単にできることではありません。   話し合いに臨むファシリテーターも、そして組織変革リーダーも、そうですよね。