最終回 ファシリタティブに生きる(社会関係資本の増加)あがり・・・支援?事務局

 その両方の倫理を持つことは、ギリガンさんのいう「権利(正義)の倫理は、自己と他者の主張を均衡させて、それぞれを尊重することを明らかにするが、責任(世話)の倫理は、共感と心くばりを生むところの理解にその基盤を置く。(中略)この二つの道徳律には、互いに補完しあう性質がある」というときの、『補完』を実践することなのだと思います。  イグナティエフさんという方の別の表現を借りれば、世話の倫理においては、人格としての人間が持つニーズすなわち、愛情・尊敬・名誉・他者との連帯や人間としての尊厳などが大事にされるのだよ。しかし、選択と方向づけへの確信を求めるなら、ふたつの倫理が補完しあうすべをはかることになるのだよ、というのです。調整や行動はこうして「公共的」となるといっていいのでしょう。合意形成や全体最適は、たとえば「公共の善」や「生活の質の向上」などの、よりいっそう高い目標をめざすものとしてその調整や行動の質が問われることになり、拡張された私たちみんなの承認と評価を受けるはめになる、というわけ。  同様のことを今田高俊さんはこう表現しています。  「ケアの特徴は、存在関心での『利己性(私的関心)』が、所有関心での『利他性(公的関心)』に矛盾なくつながり、私的なことが公的なものと連続的につながって、両者が融合した状態である」と。この、利己性と利他性の融合が「公共的」という意味合いですし、その公共性が今田さんの言う「自己組織性」を支える大きな要因になってくるのでしょう。  では、合意形成への支援という点ではどうか。 調整的な合意形成への支援の性質は、「問題解決や意思決定のための支援」あるいは「欲求充足のための支援」でありましょう。それはヘルプ、エイド、アシストが近いですか。  一方統合的な合意形成では、支援の性質はそれだけでなく、「所有物の機能を見つけだす支援」であったり、「共有財産と、その利用目的じたいを生成するための支援」であったり、「新しい発見/発明の心構えと準備のための支援」なども含まれてきましょう。それはサポート、ケア、エンパワメントが近いですかね。支援としてもふたつの倫理の融合が必要なのだ、ファシリテーションはそれをやるのだ、といいたい。  しつこく申し添えますが、合意形成(皆様はもうすでに、私が「合意形成」と「ファシリタティブに生きる」を同じ意味で使っているとお気づきでしょうが)のリアリティを感じたい、という意味は、私たちは「我々は正しい選択と、正しい方向づけをしたのだ」という確信が欲しいということですよね。  「正しい選択と方向づけをした」という確信は、ふたつの倫理が補完・補足しあったうえで、「公共社会の一員たる市民としての帰属と共有というニード(イグナティエフ)」を満たしたときに生まれます。これはある面、マズローの欲求五段階説のいちばん一番上層にある「自己実現欲求」を補完・補足説明するものとしても捉えることができる。つまり、利己性の強い個人主義的な「自己実現」を乗りこえた、利他性も含んだ「他者実現の欲求」と「公共的社会実現の欲求」です。つまり公共的関心の増大です。自分ひとりでだけ「実現」しちゃって満足しててはダメ。社会の中で連帯や協働をしつつ、自分以外も「実現」しなきゃダメ。ファシリテーションはそれをやるのだ。  私たちは、「拡張された私たち自身」からの支持と承認と評価を得て、選択と方向づけの確信を得るためには、けっこう努力が必要なのです。生きるリアルって骨が折れる。 ●「わかる」から「する」への合意  合意形成のこうした側面をも考えることによって、合意形成は「わかった」「理解できた」という段階から、「なるほど腑に落ちた」「身にしみた」、そして「じゃ、それをする」「アンタも、する」「みんなでする」という段階に入ってまいりますでしょう。ことばどおり、頭から体に伝わって実際の行動にうつります。わかったら、する。  私有の考え方は権利ということばに結びつきやすく、そして権利ということばは正義という概念に結びつきやすい。一方、共有の考え方は責任ということばに結びつきやすく、そして配慮という行為に結びつきやすい。それが集団としての人間関係の原点です。話し合いの結果として「する」ことになり、「する」リアルの実感を得ることに結びつくのがこの、共有や責任や配慮というこころの持ちようではないでしょうか。逆に、私有・権利・正義って、政治とか革命という行為に結びついちゃうかもしれない(むしろそちらにリアルとスリルを感じる人もいるとは思いますが)。  人が、生きるリアルの実感を得るのは、自分の権利やニーズにとらわれているときではなく、「(見知らぬ他人の)ニーズを、連帯と分業を通じて権利に換え、権利を配慮に換える変換作用(イグナティエフ)」がおきる場、つまり「私たち」のリソースに目覚めるときにおいてであるということになります。  このように考えてくると、そうした変換作用がおきる場では、たとえば「人の助けを請う」や「支援や世話を頼む」とか、「他者の共感を期待する」や「自分の代弁をして欲しいと願う」「権限を委譲してくれと要求する」などという、正義の倫理においては自立していない主体の情けない行為とでもいうようにマイナスに受け止められることであってさえも、その行為は「ひとつの能力」としてまわりから認められ、承認され、プラスに評価されることもあるでしょう。なぜなら、責任や配慮というのは、「拡張した私たち」においてはニーズとリソースの渾然一体、相互的なものだからです。統合的な合意形成の場が相互的であるとすれば、人の頼みごとに応えてあげられる能力・可能性だけでなく、人に頼むことだってひとつの能力として認められて当然です。「借金の天才」という、ある面ものすごく社会関係資本家的なヒトだっているじゃないですか。こういう相互的な場において、なーんだ、それなら「する側」と「してもらう側」、「支援する側」と「される側」とは結局いっしょじゃないか、という認識がみんなの間に生まれます。 ●開かれた「個」への評価とフィードバック  ならばこれからの課題は、機能にポイントをおく「能動的使用(生産)のための所有のしかた」を、個人の能力として計る方法をも見つけなければなりますまい。もちろん、組織やコミュニティや社会や国家のなかで、です。それはなにもサービスのお仕事としてケア(お世話)を行なおうとしている人たちへの評価、ということではありません。「拡張した私たち」の一員、つまりコミュニティになにかを持ってきてくれるヒトに対する適切な評価が、必要な時期なのです。  「私」の所有するフレームワークを、たくさん「公・共」の場に提供できるようになることは、たいへんな困難を伴いましょう。しかしそれを行なおうとする努力が、ファシリタティブに生きることにつながるものだと思いますし、自分の身のまわりに生成的な影響をもたらしやすいものだと確信します。創発の磁場が生まれましょう。  会社の人事評価では、「働く人の脳のフレームワーク」が評価の対象になり、機能・能力としてその価値を認められる時もあります。それは良くいえば「その人」の脳のフレームワークが多様であり、開かれていて、会社や会議という「公・共」のフレームワークに影響を与えたり、「公・共」のフレームワークそのものになっていくことに対する評価でもある、と考えられるのではないでしょうか。  一方では過度の成果主義や実績主義、一方では能力主義やコンピテンシーの偏重といわれて批判にさらされることの多い人事評価制度です。しかし私たちが、「個」の持つ多様なフレームワークを「公・共」の場に提供してもらって共有財産(共有地・共有知)としてくれる行為を支持し、個と全体の相互影響を深めていくことを支援し、まわりの人がその行為に共感して承認することそれじたいをも評価する、というスタンスでおこなうことができたら、また違った局面をむかえるかもしれません。  たとえば、自分の家の庭をみんなに使ってもらうかのように自分のフレームワークを会議の場にさらけ出す、ユーザーや利用者というお客様に助けてもらって共同で商品開発をする、今いない人の状態への想像力を働かせて新しいサービスを提供する、手に入れた情報や知的財産はなるべくオープンソースにする、拡張された私たちの分身でもある『電車男』を熱烈支援する。そして、財産をみずからコモンズに持ちこみ、誰でもアクセスできる資産として増やしていく。  こういう行為が高く評価され、それに対してまわりから前向きなフィードバックが行なわれることが、あらたな人事評価かもしれません。それは職務遂行能力とか、潜在能力の顕在化とか、エンプロイアビリティとかいう今までの人事評価用語にはあまり影響されないで、評価基準が「機能的財産を能動的に使用(生産)するチカラ」を計るものへと変わっていくことになることでしょう。  そして、ファシリテーションに期待されている「合意形成のためのプロセスへの支援」は、このような、さらけ出す/使ってもらう/提供する/持ち込む行為への世話(サポートとケアとエンパワメント)であるという点をきちんと押さえなければなりますまい。 それが支援としてのファシリテーションであり、社会関係資本の増加を支えるために「私たち」が持つべき武器なのだと思うのです。別の意味では、ファシリテーターは新しい基準をそなえた評価者にもなりうるのですね。 <参考文献> 「自己組織性と社会」今田高俊 東大出版会 /「ニーズ・オブ・ストレンジャーズ」 マイケル・イグナティエフ 風行社/「完全なる経営」A・マズロー