2007年度08月定例会 ファシリテーションにナラティヴ・アプローチを〜みんなで未来の物語をつくること〜東京支部

【定例会概要】


■テーマ:「ファシリテーションにナラティヴ・アプローチを」〜みんなで未来の物語をつくること〜
■日時:8月25日(土)13:00〜17:00
■会場:日本経営協会(NOMA)2F
■当日参加人数:90名
■ゲスト:野口 裕二氏(東京学芸大学教育学部教授)
■企画チーム:池田隆年、宮川幸恵、朝野舜、浦山絵里、佐藤麻美子(以上、FAJ会員)

【定例会内容】


【1】講義(13:00〜)
1.ナラティヴとは
ナラティヴ・アプローチは1980〜1990年代に精神療法の中の家族療法から始まった。元々精神科領域であったが、患者の語りを大切にすることから医療・福祉の領域にも広がってきている。
ナラティヴ(narrative)という言葉は「物語(=行為)」/「語り(=結果)」という2つの要素を含んでいる。この2つの意味を表現できるちょうどよい日本語がないため、日本でも 「ナラティヴ」という言葉を使っている。
ナラティヴがどのようなものかを示すために、セオリーと対比させて説明したい。セオリーは要素間の一般的関係を示すものであるため、一般性、必然性、法則がなければならない。それに対し、ナラティヴは、具体的な出来事を時間軸上につないだもので、個別性、偶然性、意外性という特徴がある。ナラティヴはわかりやすい、楽しめる、反論できない、にもかかわらず、セオリーが優位と考えられてきた。ナラティヴがセオリーを生み出すための素材であるとみなされていたからだ。研究者になることは、より良いセオリーを求めていくことなので、ナラティヴ研究者にとっては自己矛盾を含んでいる。
セオリーを批判することはできるが、ナラティヴは個々のものなので批判できない。どう生きてきて、どう生きていくかというのは、セオリーのない領域であり、ナラティヴが大切になってくる。
物語を表す言葉にはストーリー(story)もある。ストーリーが出来上がったお話であるのに対し、ナラティヴはおじいちゃんが語る話のように、人が人に語っているイメージだ。

2.社会構成主義(social constructionism)


「言葉は世界をつくる」(Words create worlds) という表現があるが、これは「現実は社会的に(ひとびとの共同作業によって)構成されている」 という意味だ。
例えば、「セクハラ」。「セクハラ」という言葉がなかった時代もセクハラのような行為はあったはずだ。しかし、「セクハラ」という認識がなかったので、うやむやにされていた。現在は「セクハラ」という言葉があるので、ある現実が「セクハラ」という現実として認識される。
もちろん、言葉にならないもの、言葉を超えるものもあるが、現実を認識するうえで言葉が決定的な手がかりになる。このような「現実の言語的社会的構成」という考え方を理解するとナラティヴ・アプローチがわかりやすくなる。

3.ナラティヴ・セラピーの実践
?「スニーキー・プー」(White&Epston,1990)
「スニーキー・プー」とは、「ずるがしこいウンチ」という意味。原因追求をしなかったことで、子どもの遺糞症という問題を抱えた家族の状況が改善していった例。
セラピストたちは、遺糞症という問題に「スニーキー・プー」と名付け、子どもから遺糞症の問題を切り離した。そして、「スニーキー・プー」に支配されてしまうとどのような問題が生じるのか、支配されていない時間はあるか、支配されていない時間を増やすにはどうしたらいいかを家族に考えてもらった。家族が各々支配されていない時間を増やすための行動をした結果、状況が改善していった。
原因探しをするとお互いに批判しあい、家族関係が悪化していく。変わってしまったことの原因を探すのではなく、変わっていない部分を増やしていこうという発想の転換が、よい結果につながった。問題に名前を付け外在化することによって、オルタナティブ・ストーリーが生まれてくる。その結果、内在化する言説(セオリー)の支配から脱出できることがある。

?「リフレクティング・チーム」(Andersen,1991)
家族療法では、セラピストたちが、話し合いをしている家族をマジックミラー越しに観察し、治療方針を立てるという方法が主流だった。この方法では、セラピスト同士がセオリーの正しさを競い合ってしまうこともあった。リフレクティング・チームでは、セラピストたちが家族を一方的に観察するのではなく、家族もセラピストたちの話し合いを観察する。そして、セラピストたちの話し合いを観察して感じたことを家族で話すということを繰り返していく。
リフレクティング・チームは、セオリーの正しさを競い合うのではく、個人のナラティヴを交換し合う場だ。そこでは、専門家が診断し、家族は専門家の指示に従うという関係から、家族が「自分たちが主役だ」という姿勢に変わる。必ずしも名案が出るわけではないが、家族が協力しあうモードになり、家族とセラピストが共同で問題に立ち向かうという新しいナラティヴが生まれる。すると、問題だと思っていたことがあまり問題ではないと認識されるようになっていく。

「スニーキー・プー」、「リフレクティング・チーム」ともに、ナラティヴによって、原因探しというセオリーに呪縛された現実から、新しい現実(=物語)が創造された例だ。原因追究モード(=セオリーモード)でたいていのことはうまくいくが、ナラティヴモードという選択肢もあるということをぜひ知っていただきたい。

4.組織へのナラティヴ・アプローチ
ナラティヴ・アプローチはビジネスの世界でも注目され始めている。最近では、コーチング分野の人から声がかかることもある。ここでは、個人ではなく、組織へのナラティヴ・アプローチについて考えてみたい。
?物語の重層性
物語には、「大きな物語」と「小さな物語」がある(Lyotard,1979)。「大きな物語」とは、世界が動くような物語、たとえばビッグバンや世界史レベルの物語であり、「小さな物語」とは個人の物語だ。
会社のような組織の中には、創業から現在に至るまでの「組織の物語」と、○○会社社員としての「個人の物語」がある。「個人の物語」にも「私の物語」と「あなたの物語」がある。これらの物語が組織にいろいろな影響を与えている。

?理論的対立と物語的対立
対立には理論的対立と物語的対立がある。理論は実証すれば決着がつくが、物語は決着がつかない。たとえば、会社での方針の対立、夫婦喧嘩のようなものもあれば、パレスチナ問題のように解決が難しいものもある。 物語的対立は、実証による決着ではなく、「新しい物語の創造=新しい現実の創造」によって乗り越えていくことができる。

?ナラティヴ・ファシリテーション(?)
ナラティヴ・アプローチとファシリテーションとの関係を考える時に思い出すのは、アルコール依存症の患者さんたちのグループでファシリテーターをやってきたことだ。そこでは、新しいナラティヴを引き出す、創り出すことがファシリテーターの役割だった。

<文献> 野口裕二「物語としてのケア ナラティヴ・アプローチの世界へ」、医学書院、2002
野口裕二「ナラティヴの臨床社会学」、勁草書房、2005

5.質疑応答

【休憩】

【2】ワーク(14:30〜)
1.ワーク1
<ワークでの注意点>
・ 私を主語にして、過去形で語る。
・ 話したくなければパスしてもいい。
・ 守りや攻めに入らない。ナラティヴは競争モードではない。
・ 観察者はいるが、あくまでも輪の中のグループに対して語る。

参加者同士で4〜5名のグループになり、Q1、Q2について語る(3分間)。Q3についても同様にグループで語る。その後、全体発表(5名)。

Q1、ファシリテーションの経験において、理論的対立と物語的対立と言われて思い当たる事例は?
Q2、その対立は結局どうなったか?
Q3、ファシリテーションは、このような対立にどう対処すればいいのか?

2.ワーク2「リフレクティングチーム」
ワーク1で発表した5名が前に出てきて輪になって語る。先ほど発表した内容でも、別の話題でもかまわない。批判、攻撃はなしで、ただ輪になったメンバーに向かって語る。他の参加者はこの5名を観察。観察の後、参加者同士で4〜5名のグループを作り、前に出ている5名の語りについて語り合う。


通常の定例会のような全体の振り返りはなく、語りに始まり、語りに終わる。

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